日本伝道について⑩ 「信仰のレジリエンス」について

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「卒業クリスチャン」にならないために ~信仰の「フェーズ」と「レジリエンス」~ ②

 

(前回記事からの続き)

 

こういった「神による幸い」を求めて教会の門を叩くというのは、特に「一代目キリスト者」であるなら、ほぼ共通していることではないかと思います。

 

この世から、挫折や苦しみ等の経験を通して「出エジプト」をさせられ、教会という「約束の地」での生活が始まるのです。

 

ところが、信仰生活はここで終わるわけではありません。

 

約束の地に入ったイスラエルの民は神を忘れて苦しみのなかに落ち、何度も神の懲らしめを受けることになりました。

 

主イエスの御生涯においても、その中盤には新しい局面が生まれてきます。それはファリサイ派や律法学者などからにらまれ、こうした人々との論争が激化して弟子たちも次第に離れていくことです。

 

主イエスの弟子にとって、主が大きな権力と地位をもっていた律法の教師たちと対立することは、いろいろな意味で不安や恐れを覚えることだったに違いありません。

 

主イエスが敗北するなら、次に狙われるのは自分たちであるのは明らかでした。

 

また、弟子たちにとって主イエスは、「イスラエルを再建する政治的な王である」という考えがあったため、この考えをまったく超えた言動をされる主イエスに当惑や疑いの心があったことは、容易に想像できます。

 

 こうして次第に、身体的・精神的癒しを求めていただけの群衆は去っていきました。

 

主イエスから癒しというメリットは受け取るが、主イエスと共に論争に巻き込まれたり、自分の立場を失ったりするような「面倒事はごめんだ」、ということです。

 

残ったのは、12使徒をはじめとした、それほど多くはない弟子たちだけでした。「この人についていって、果たして大丈夫なのか」という疑念に打ち勝つことができなかったのです。

 

以上のことから、教会生活に伴ってなんらかの「面倒事」や「犠牲」が生じてくることがわかります。

 

総会や役員会を行ったとき、降ってわいたような反対意見によって、多くの人の心が動揺することがあります。

 

牧師のやり方そのものが疑わしく思えることがあります。

 

献金を求められることに、心が疲れてしまうこともあります。

 

どんな種類のものかはさておき、こうした「面倒事」や「犠牲を強いられること」が教会生活には、どこかで伴ってきます。

 

これは、避けようにも避けることができません。

 

こういうことがまったくない教会は、地上にはないのです。

 

というのも、これらは主イエスご自身が味わっておられることであり、主イエスの御生涯の只中で起こっていることだからです。

 

「ガリラヤ伝道」のときに押し寄せてきた群衆のように、「信仰的御利益だけが自分はほしいのであって、犠牲を払うことはごめんだ」という人は、そこで躓いて、去ってしまうでしょう。

 

「自分を癒し、救ってくださったキリストのために、この犠牲を払うことが、自分なりのこのお方への応答である」と考える人が、そこでなお教会に留まるのです。

 

これが信仰の第二のフェーズです。

 

つまり、「キリストから幸いを受けるばかりでなく、犠牲をも担う」ということです。

 

教会生活に「面倒事」が生じてくるのは、「異常事態」なのではありません。

 

特別に罪深い牧師や役員、信徒がいるからそれが起こるとは限りません。

 

地上の教会ではどんなところでも、こういったことは生じてきます。

 

主イエス・キリストに服従している教会で、むしろ明瞭に起こって来るとさえ言えるのです。

 

というのも、主イエスご自身がそれによって、私たちをテストし、更なる信仰的深みへと導こうとされるからです。

 

教会生活していると、人間の罪や弱さがかえってはっきりとわかります。

 

また「人を裁くな」と言っている人が、別のところで思う存分人を裁いているなど、キリスト者の言動の矛盾は多くの人が経験するところです。

 

しかしこれは、「教会がもはや教会ではなくなっている」から起こるのではなく、教会が聖書的・教会的に形成されているところでも、なお起こって来る課題なのです。

 

つまり、こういった課題が教会に起こらないようにすること自体が、ある意味不可能なのです。主イエスの御生涯の一部だからです。むしろ、これをどう担い、よりよくキリストに従っていくことができるのかを、問わなくてはなりません。

 

そのためには、どうしても「犠牲」や「面倒事」は教会生活に含まれているのであり、これによって私たちの信仰のフェーズが前進・成長するよう、神によって用いられると考える必要があるのです。

 

そして、第三のフェーズとして、旧約聖書が描くところのユダの滅亡となる「バビロン捕囚」の出来事、福音書が告げる主イエスの受難と十字架の御業があります。

 

神に選ばれたはずのユダは異国の攻撃で滅び、主イエスは人間の罪によって十字架につけられ、ついには神からも見捨てられる霊的・地獄的な暗黒に包まれるのです。ここに示されているのは、信仰的な「死」のフェーズです。

 

主イエスが十字架につけられたとき、12使徒もみな、主を見捨てて逃げてしまいました。主を慕う女性たちが従いましたが、彼女らも泣いているだけでそこでなにが起こっているのか、だれも理解しませんでした。

 

ついに主イエスが十字架にかかられたとき、全地が暗闇に閉ざされ、人類の罪の暗黒が覆い、父なる神の臨在と慈しみさえ、主イエスから取り上げられました。

 

これ以上はない魂の孤独と苦悶のなかで、主イエスはご自身を神に委ねられ、息を引き取られました。

 

主イエスが十字架で最後にお示しになったのは、絶対的な孤独であり、想像を絶する魂の苦しみの深淵です。

 

教会生活をしているとき、こういった「死」の次元に遭遇することさえあるのです。

 

それは自我が徹底的に打ちのめされる恐ろしい闇であり、周囲のすべての人と神さえもが自分の敵となったと思われるほどの孤独と寂寥にさいなまれることです。

 

人間の声ばかりか、聖書の言葉や祈りさえも心に痛みを覚えるほど、心は暗闇に閉ざされます。

 

そんな闇が信仰生活にあるなどと、だれも想像できないでしょう。

 

しかし、それは主イエスが十字架で味わわれたことであり、この闇さえも主の御生涯の一部なのです。

 

マザー・テレサという人はいつも美しい微笑を浮かべている人でしたが、死後に出版された彼女の内面の苦痛を綴った手紙に、世界中が驚きました。

 

彼女の微笑の影には、深い魂の暗黒との闘争があったのです。

 

いわゆる「魂の暗夜」の経験です。

 

しかし、それは主イエスが十字架で耐えしのばれたものである以上、やはり信仰の一部なのです。

 

こういったフェーズに直面して、なお教会に留まることほど、信仰が試されることはほかにないでしょう。

 

このときの唯一の慰めは、「この魂の苦悶と孤独を、主イエスも私と共に味わってくださっている」ことだけです。

 

これが信仰の第三のフェーズです。

 

福音書が描く主イエスの御生涯から、罪のない神の子であるお方でさえ、苦しみに取り囲まれ、十字架を担われた救い主であることを見てきました。

 

私たちキリスト者は「キリストと一体とされた者」であり、教会は「キリストのからだ」です。

 

それは、キリストの復活の恵みと祝福ばかりか、主の苦しみにもあずかっているということです。

 

十字架を振り落とし、その苦しみから安易な形で逃げてしまうなら、信仰の成長が止まってしまいます。

 

いや、そんな消極的なことではなく、むしろ私たちの泥臭い苦しみさえ、主がご自分の苦しみとなしてくださり、主が共に苦しんでいてくださる、私たちの光栄と特権を覚えたいと思います。

 

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1:29)

 

なぜなら、私たちの苦しみによって、キリストは私たちの信仰を成長させ、更にご自身に似た者へと造り変えてくださるからです。

 

このように信仰には「フェーズ」があり、苦しみもまた信仰の成長の不可欠・不可避の一部であることを理解することで、「主と共に十字架を担う」ことができる「レジリエンス」を養っていくことが、「生涯信仰」を貫くために必要です。

 

苦しみによって私たちは、研ぎ澄まされた奉仕の器へと成長させて頂けます。主の鍛錬にあずかることで、私たちのような傷ついた罪人をさえ、主はより大きなご栄光を顕すために用いてくださるのです。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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