日本伝道について⑬  教会の「競合相手」とはだれか?

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『レジャーの神学』(佐藤敏夫著)を読んだという方に、実は私はまだ一度もお会いしたことがない。

 

しかし、私は数年前にこれを読んで、いろいろと認識が深められ、実践的な面でも大変参考になったので、紹介させて頂く。

 

教会にとって、「競合する対象」とはなにか、考えたことがおありだろうか。

 

おそらく、多くの方は「他宗教」であるとお答えになるのではないかと思うし、私もそうだと思っていた。

 

しかし、「レジャー(余暇)」という視点からとらえると、教会が伝道していくうえで競合している対象は、「多くの人が日曜日、休みや気晴らしをするために消費しているもの」であるということがわかる。

 

平たくいって、「日曜日、多くの人が教会に行くことなく、行っている活動」が、実践的には教会の競合相手なのだ。

 

ゲームセンターやカラオケ、ネットサーフィンや映画、家族サービスで行くような娯楽施設や遊園地、スマホやデバイスを使ったゲーム全般など、これらについて教会と競合していると、私自身考えたことはなかった。

 

しかし、「日曜日」という限られた時間を、多くの人が何をすることによって使っているかを考えてみると、上にあるような多くの娯楽や遊びは、まったく教会の活動と競合しており、しかも非常に多くの人にとって魅力的であり、強力な引力を持っているいうことだ。

 

この著書では哲学や教会の伝統をたどりながら、レジャー(余暇)についてこれまでなされてきた多くの理論を概観していく。

 

「遊び」と「祭り」こそがレジャーの本質であり、これらは「自己目的的」なものだ、という。

 

「労働」は、「目的」に従った活動であり、そこでは「目的に対する合理性・効率性」が最も重要になる。

 

そして、労働は人間の「必要」に仕えるものであり、「衣食住」などのニーズを満たしていくために必要だ。

 

しかし、労働ばかりの人生観・価値観で生きているなら、人間性は病んでしまい、安らぎを喪失していくばかりになる。

 

そこで労働によるストレスや圧力から解放されるときとして「レジャー(余暇)」があるわけだが、これは「それ自体が目的であるような活動」だ。

 

つまり、「祭り」や「遊び」は「なんのためにするのか」というと、「祝うため、遊ぶため」以外の答えはない。それ自体が目的であるところに、意味がある。

 

労働という「目的合理性」を「禁欲的」に追求することをよしとする在り方に対して、レジャーは高揚・陶酔・緊張などの特色をもち、それ自体に喜びと意味があるものだ。

 

レジャーをすることで、安息と喜びに憩うことができる。

 

そして、教会での礼拝は「レジャー」の最たるものであり、そこでは人生全体について御言葉による観想・黙想がなされ、ビジョンが描かれる。

 

礼拝は「祭り」と「遊び」の性格を持ちながら、神と交わりを喜ぶそれ自体が目的であるような活動だ。

 

一旦労働や日々の義務の働きから身を引いて、神の恵みを黙想し、自らの過去・現在・将来を新しい信仰の認識によって見渡すことで、労働や人生の意味を胸のうちに刻み、新しい活力を与えられるものだ。

 

(教会にもいろいろな「目的」を定めていく教会形成の在り方が今、メガチャーチに広まっている。私がこのやり方の間違いに気づかされたのも、本書の議論の助けによるところが大きい。目的は「労働」の範疇だが、礼拝はそれ自体の遊びや祭りの性格なのだ)

 

本書は以上のような内容を、手を変え品を変えながら、多様に展開してくれる。

 

ひいては、教会の礼拝出席者が減り続けているというのは、この世が「レジャー」分野に対して恐るべき投資をして、「気晴らし」が社会に膨大な数になるまで増え広がったことによる、ということも言える。

 

以前、ある牧師から聞いた話だが、日本の教会への出席者が減るようになったと感じたきっかけは、テレビの普及だ、という。

 

レジャーとして、「テレビ」という強力かつ手軽な競合者があらわれたことで、教会に安息を求めなくても、テレビを見て日曜日ゴロゴロしている方が、それなりに休息することができると、多くの人が考えるようになったということだろう。

 

逆に、それでもなお「教会に来る理由はなにか」について考えるなら、端的に「家でゴロゴロしながらネットやゲーム、テレビに興じているより、教会に行った方が遥かに上質かつ素晴らしい安らぎを得ることができる」と考えるからだろう。

 

迎える教会の側としては、「世の中のメディアが提供するよりも深く、豊かな安息となる礼拝を捧げることができているか。この世の講演者が語るような内容にまさる、人生の新しいビジョンや活力を与えられるようなものに、礼拝説教がなっているか」ということが問われているということになる。

 

日曜日の礼拝を「レジャー」ととらえるのは、意表を突かれるような視点であるが、実はここに非常に豊かな歴史や意義があることを、この著書は教えてくれるということで、大変有益なものだ。

 

アマゾンでひどく安く売られているが、神学的な価値としては高いものがあるので、ぜひお読みください。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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