キリスト者と「裁判」

 



最近、キリスト者が「裁判」を起こす事例をいくつも耳にしており、心が苦しくて仕方ない。


私の母校も裁判を起こされており、毎日こういった哀しみや虚しさと戦わざるをえず、暗い心と魂の痛みが絶えずつきまとっている。


個人的レベルでも、現代のキリスト者が裁判を起こすことによって問題を解決するという頻度が、過去と比較して上昇していると感じるのは、わたしの主観的な見方に過ぎないのだろうか。


あらためてこの課題について取り上げて考えたいのだが、聖書に裁判について記されている部分があるが、ダイレクトに以下のように書かれている。


コリントの信徒への手紙一 6:1-9 新共同訳聖書より


「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。


あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。


世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。


わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。


まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。


それなのに、あなたがたは日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。


あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。


あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。


兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。


そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。


なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。


それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。


しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。


正しくない者が、神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない」


上の箇所で特に課題となっているのは、「信仰と生活」に関わる部分についてであろうと思われる。


そういった霊的領域においては、私たちの「唯一の規範」は聖書であるため、聖書の教えに従うことが求められる。


一方、この世の枠内で、この世の法の領域にある課題については、裁判によってしか解決ができない課題も存在する。


そういった課題については、キリスト者といえども裁判に訴えることはできる。


パウロ自身も、不正なむち打ちを受けそうになったとき、ローマ帝国の市民権を持ち出して、その不正を訴えている場面がある(使徒22:24~29)。


「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と主イエスがおっしゃっているように、この世の法的領域と、神と教会の霊的な法的領域を区別することが、前提として不可欠だ。


前者については裁判の適用もありだが、後者は神の裁きを待ち望みつつ、忍耐する信仰が求められている、と言えるだろう。


ところで、教会においてはどんな課題も多くの場合、「前者と後者の混交」と「重なり合い」であることが多い。


視座により、前者から見ることもできるし、後者から見ることもできる。


領域として、重なり合っているような事例だ。


混交の割りあいや重なり合いの理解についても、その線引きは解釈の問題となるため、困難がある。


区別について専門的解釈が必要となる微妙な問題が多い、ということになるだろう。


法の素人には区別できない問題に遭遇したら、弁護士など法律の専門家に相談するのは特に必要な事例があると思われるし、法的領域の原則に従って裁判で決着をつけることも必要なことがあるだろう。


一方、「神の裁きを待ち望む信仰」と、「信仰に基づく忍耐」については、聖書の教えの中枢にあるものだ。


このことに対する信頼と畏れの「希薄化」があるのではないか、という問いを、私自身はぬぐうことがどうしてもできない。


現代のような世界史上、最も世俗的な時代にあって、神の裁きと神の公正・正義に対する信頼と畏れが、リアリティを失ってしまっていると、私たちは感じているのではないか。


神の裁判、神の正義に訴えるよりも、目に見えるこの世の法廷に訴える方が、より問題解決のうえで有効かつ適切である、という認識をもちやすい時代精神が蔓延している。


神の正義をあいまい化し、リアリティがないものと思わせる時代精神は、「悪霊」と呼ぶにふさわしいものだが、この悪霊に私たちがやられてしまっていないか、自己吟味が求められている。


仮にパウロが言っているように「奪われるまま」になってしまったとしても、それが神の前で不正であるなら、神ご自身が多くのご自身の手段を通して「取り戻してくださる」という信仰を、私たちは受けとめ直す必要がある。


まずは「私自身の課題」としてとらえ、「神は正義と公正に満ちており、その裁きは正しい」という聖書の最も基本的な教えに立ち返ることが神からの招きなのではないか。


重大な問題に遭遇したとき、裁判を起こすにしろ、起こされるにしろ、取り下げるにしろ、そうでないにしろ、このような基礎となる信仰を「大前提」として堅固に抱いているならば、事態が神の恵みと力により改善していくのは明らかだろうと思われる。




2050年 日本基督教団の絶望と希望

 




日本基督教団では「2030年問題」について言われて久しい。


2030年前後、現住陪餐会員の平均年齢が平均寿命を超えるということで、日本基督教団の多くの教会が存続を問われる事態になっているだろう、という。


統計的にはそう言える、という話に過ぎないが、数字に基づいている以上、やはり蓋然性はそれなりにあると考えざるをえないだろう。


ここでは、一つの想像として、「2030年」のさらに先、「2050年」を考えてみよう。


この記事の著者は2022年現在43歳だが、2050年には71歳になっている。


要するに、現在40代の牧師たちの多くが隠退を考えるような時期、日本基督教団はどうなっているのか、思い描いてみる、ということだ。


(もちろん、それまでに主イエスの再臨があるなら、ここに記すことはすべて気にしなくてよいものとなるのだが・・・)


ごくシンプルに考えて、そこには絶望と希望がある、と自分には思われる。


絶望的な部分について触れると、現在存在している日本基督教団の多くの教会は、そのとき存在していない可能性が大きい。


牧師や信徒の人数も、そのときには過去と比較して、激しい悲しみと胸を焼かれるノスタルジー以外なにも抱くことができないようなものになっているだろう。


ヨーロッパで、過去の栄光を物語る歴史的な大聖堂が、いまやほとんど集う信徒もなく閑散としている姿、あれは2050年の日本の教会の姿とほぼ重なると考えていい。


日本でも、2050年前後には日本教会史に名前を残しているような大教会が、跡形もない状態になっている、という例がいくつも散見されるに違いない。


日本基督教団の将来に見えるのは、一面においては、こういった絶望的な、廃墟のようなビジョンだ。


どんなに包み隠そうとも、問題を真摯にとらえ、現在の流れをありのままに見つめている限り、こういった将来を回避することは困難だろう。


一方、希望を持つことができるビジョンもある。


現在の危機的な時代にあっても、なお日本基督教団には御言葉の説教や聖礼典、伝道や教会形成といったことについて、ひるむことなく揺らぐことなく、使命を果たし続けている教会があるのだ。


衰退の流れに押し流されることをよしとせず、これに激しく抵抗し、なおイエス・キリストの不変の恵みを信じ続けている牧師と信徒の群れだ。


そういった群れにおいて、またそういった群れを導く牧師においては、上に描かれたような絶望的状況は該当しない。


聖書の約束が実現していくからだ。


むしろ、そういった教会は「残りの者」として、神によって祝され、新しい教会の時を生み出す拠点となっていくだろう。


日本基督教団の多くの教会が廃墟のような状況になっていくときにも、イエス・キリストの信実を信じ続けた牧師と信徒は、新しい時代を拓く礎となる。


つまり、日本基督教団の牧師と信徒の数は減り続け、ついにはまったく無に等しいような状況にまでなるかもしれない。


それでも、なお「残りの者」(「バアルに膝をかがめなかった7千人」(列王記上19章)のような・・・)がそこに存在している限り、その人々が新たな時代を築く、教会の母体として用いられる。


その人々から信仰を受け継いだ世代は、私たちが見ることができなかった新しい世界を見ることができるかもしれない。


いま、私たちは神によって「ふるいにかけられている」のだ。


絶望的な将来への道を行くのか、希望の将来への道を歩むのか。


「バアルに膝をかがめる大半の人々」の一員になるのか、「残りの7千人」の一人となるのか・・・。


ふるいにかけられた先に、絶望と希望とに、私たちは分かたれているだろう。


これは「だれか」の問題ではなく、「わたし」と「あなた」の問題なのだ。



「牧師依存」の代償と「賽の河原問題」

 




牧師は「御言葉の説教と聖礼典の執行」を主たる職務とするが、教会で生じる課題の「すべて」について、責任を負っているとも言える。


教会の維持管理に関わることから、事務的なことに至るまで、牧師に責任のないものはないと言える。


一方、その牧師はいずれはその教会を去る人間であり、別の人間が導かれ、職務に着く。


牧師は「いつそこからいなくなるのか、わからない」者でありながら、「そこに責任を負っている」という、不思議な状況を抱えている。


牧師と教会の方向性が異なってしまえば、牧師はそこにいることはできない。


教会が牧師の説教や奉仕を軽んじ、それを受け入れないなら、牧師は早晩そこにいることはできなくなる。


牧師自身や家族に重大な病気や事故などがあれば、牧師はそこにいることができなくなることもある。


牧師は薄氷の上を歩くように、「いつ神によって取り除かれるか、わかららない」ものとして、職務を推進していく。


そして、牧師が辞任するときというのは、ほとんど常に教会員にとっては「青天の霹靂」として、つまり「まったく予想もしないような時や場所」で告げられたりする。


「まさかあのとき、牧師が辞任するなどとは思わなかった」と多くの人は口をそろえて言うのだが、実のところはその下地は数年以上前から準備されているのが普通だ。


上にあげたような、なんらかの理由が辞任せざるをえない水準にまで大きくなってくるとき、牧師は神の御心を問いつつ歩むが、いよいよ自分がそこにとどまることが御心とは思えない時がやってくる。


教会の職務は、牧師が担うことによって適切に進められることも多いが、当の牧師は「いついなくなるかわからない」、グレーな部分がある。


つまり、教会形成を「牧師依存」「牧師主体」で進めれば進めるほど、「牧師の辞任」によって教会が支払う「負の影響」の代償はより大きくなる、ということだ。


教会員が皆で協力して教会形成を担い、牧師は「御言葉の説教と聖礼典」に集中できている、という状況であれば幸いなことだ。


牧師が交代しても、説教や聖礼典の質が確保されていれば、教会としては確実に前進を続けることができる。


しかし、説教と聖礼典のほかの部分について、教会形成の多くのことを「牧師依存」で進めてしまうと、牧師の辞任によって教会が受ける打撃というのは想定をはるかに超えるものになる。


「あの牧師がいたからやれていた」という働きのすべてが、すぐに消え失せてしまうか、別の形に変更せざるをえない。


さらに、教会が「牧師依存」ができるような働きをする牧師は、そう簡単に与えられることもない。


こうして、先代が築いたものの多くが、次の世代でいとも簡単に打ち壊される、ということが起こる。


教会形成における「賽の河原問題」だ。


石を積んでも積んでも、やがて次の時がくると積んだものすべてが崩されてしまい、最初からやり直しになる。


歴史的に、何度も何度も、同じことがループし、教会の現実は大局的に変わることがないか、衰退を続けてしまう。


この問題をクリアしていくには、まずは教会が「牧師依存」の体質を脱却しなくてはならない。


同時に、ある牧師が辞任しても、後任者において少なくとも「説教と聖礼典」においては、しっかりとした質を保つ必要がある。


そのための牧師養成・神学教育が確立されなくては、「賽の河原問題」は無限ループとなり、教会の将来を閉ざし続けるだろう。


教会としては、いかに「牧師依存」の体質を脱ぎ捨て、それぞれの信徒が「自分の集う教会は自分が支えていく」という意識を育てることができるか、それが最も大きな課題となる。





齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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