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ラインホールド・ニーバー 『光の子と闇の子』について

 

ラインホルド・ニーバーの祈り


ずっと読みたいと思っていたが、機会とお金がなくて読めなかったものに、ラインホールド・ニーバーの『光の子と闇の子』があった。

 

晶文社という出版社から新版として比較的安価なものが出たため、読むことができ、感謝だった。

 

一読して、この本の重要さを思い知ることができた。


日本の多くのキリスト者の政治的見解があまりに多様であり、混沌的であることの背景に、この書物の基本的なコンセプトを多くの人が受けとめていないことがあるように思えてならない。

 

ニーバーはこの本のなかでデモクラシーを擁護している。


その理由は、「人間には罪があり、どのような組織も国家も罪の影響から免れていないから、デモクラシーによる継続的な批判を必要とする」ということだ。

 

この事実には、深甚なインパクトがある。


多くの人は政治的なことを考えるとき、「原罪」の問題を度外視する傾向があるのだ。

 

それは、自分が「良し」とする組織や国家に対して「罪」を認めないと同時に、自分自身のなかにも罪を認めないようなことにもなる。

 

歴史的に、国家に対して反旗をひるがえして理想や正義を掲げた革命グループが政権を取ったとき、以前よりもさらにひどい非人道的な政府となる、ということが起こることがある。


革命グループは「国家」のなかに「悪」を見ていたのだが、自分たちのなかの「悪」については完全に無視しているために、こういうことが起こる。

 

ニーバーがデモクラシーを擁護するのは、人間はだれしも罪を免れないため、「絶対に正しい人間や組織」などどこにも存在していない、と強調する。


どの国家も組織も人間も、容易に堕落するため、批判と建設的破壊を常に受けなくてはならないことを歴史がはっきりと明らかにしているからだ。

 

以前聞いた話のなかで、個人的に非常に驚いたものがある。


あるキリスト者の方は、仮にどこかの国と戦争が起こったら、すぐに降伏して話し合いにでかけていくというアプローチがもっともふさわしい、というお考えだった。

 

この見解は、相手の国が良心と良識、善意に満ちた「善人」の集合体なら、理解できるものだ。


そういった人々には有効なアプローチであると言える。


しかし、聖書からしても、人間は「原罪」を背負っており、創造の善性から堕落している欲望の塊だ。

 

そもそも、戦争が起こるということ自体、人間に罪があるから起こるとしか言いようがない。

 

罪に満ちた国家に対して、すぐに降伏して話し合いに出て行った場合、どうなるだろうか。


銃をつきつけられて「こちらの要求を飲んで我々の奴隷となるか、ここで死ぬか、どちらか選べ」と言われた場合、それに対して「話し合い」は意味がなくなってしまう。

 

戦争のような有事の際、「話し合い」が意味を持つのは、「話し合っておかないと、お互い非常に痛い目に遭う」ことが、お互いに明白なときだ。


そういったときは、痛みを回避するために話し合いに意味がある。


すぐに降伏してしまったら、話し合いの前提さえなくなってしまうため、相手の思うつぼになる。

 

ニーバーの『光の子と闇の子』は、人間の「原罪」の事実をまっすぐに見据えて、人間が罪に満ちた存在であることを前提にして、社会制度や国際関係などを考察していくべきである、という。


これは「原罪論」を通して国際関係論や国家論を神学的に位置づけた、ということになる。

 

「光の子」というのは、「理想主義者」くらいの広い意味だと考えていい。


つまり、人間も国家もよりよく、より正しく生きることができるし、そうするべきだ、と考えている人々だ。


「闇の子」とは、自分の欲望と利益を最優先することについて、まったく疑いを持たない人々だ。


これはもちろん、一つの類型なので、「完全な光の子」も「完全な闇の子」も、現実の人間のなかにはいないことはもちろんだ。


しかし、人間の傾向としてこういった性格がある、ということだ。

 

ニーバーは、「光の子ら」は「愚か」である、と言う。


主イエスは「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」(ルカ16:8)とおっしゃっているが、闇の子らの自分の利益に対する狡猾さ、欲望の深さ、計算高さを軽視し、理解しておらず、いたずらに理想をふりかざすためにかえって歴史的に失敗している、と警告する。

 

ニーバーが「光の子ら」に提案するのは、自分自身は「闇」に染まることなく、闇の子らの考え方や行動原理をしっかりと把握し、相手がそういった出方をしてくることを事前に深く考慮してそれに対して有効にふるまう、という「蛇のような賢さ」を身に着けることだ。

 

「光の子ら」は、「鳩のように素直」でただ純粋なだけでは、闇に飲まれてしまうだけだ。


同時に、「蛇のような賢さ」によって武装する必要があることを、ニーバーは提案する。


これは激動と闇の力が跋扈する時代を生き抜いていくためには、まったく正しい提案であるというほかはないし、聖書的でもあると私は思う。

 

こういった、人間の「原罪」を前提とした「キリスト教的リアリズム」を描いたという意味で、ニーバーの著作には永遠の意味があると言える。

 

ぜひお読み頂きたい。

 

 

 

齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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