教会形成のルール⑤ 「教会形成と自己愛」

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言


教会形成と自己愛、というタイトルで、思うところをだらだらと論じてみたいと思う。


ここで論じる際の「自己愛」は、どちらかというとネガティブな意味内容のものとして使用している。


つまり、健全な意味での心理学的な「自己尊重」、「自己受容」、「向上心」などといった意味での自己愛ではなく、


「自己中心性の根源」、「キリストの恵みを自分の都合へと捻じ曲げようとする傾向」、「自分の欲望を物差しに周囲を変えようとすること」などの、「罪」の力をあらわす用語として使っている。


このような、悪しき意味での「自己愛」が、キリストが教会のうちに形成されることを妨げ、ついには崩壊へと導く最たるものであることを整理して考えておきたいのだ。


逆に、キリストの教会が形成されるとは、牧師と信徒が自ら「自己愛」をキリストへの信仰によって乗り越えていくプロセスであり、結果キリストへの献身と服従が深化していく過程にほかならない、と感じるからだ。


マルティン・ルターの『ローマ書講義』を読むと、ルターはこの「自己愛」を「原罪」として批判的に取り上げていることがうかがえる。


ルターは自己愛を、「自らの内に捻じ曲がっている」として表現している。


愛のベクトルが、対象に向かわず、対象を道具として利用しながら自分へと再帰する傾向を言っていると考えられる。


ハイデルベルク信仰問答においても、原罪とは私たちに内在する「神と隣人を憎む傾向」であるが、その源は「自己愛」にあると言って過言ではないだろう。


つまり、なにものにもまさって自分自身のみを愛する、そのような傾向が、神と隣人を軽んじ、侮り、そこから自らを切り離していく根源にある、ということは、神学の伝統の一部として組み込まれている、と言える。


さて、実践的な領域で自己愛と教会形成は、どのように絡み合うのであろうか。


牧師にとって、教会形成の文脈で自己愛は、どのように作用するだろうか。


「自我の強化」の方向に自己愛が働くときには、牧師は教会において「自分の栄光」を求めようとするだろう。


教会形成に熱心に従事するのも、「自分の名誉・地位・富・・・などのため」であって、キリストのためではない。


そこでどんなに大きな働きがなされても、そのすべては最終的には牧師が自らとその働きを誇ることに帰着する。


「本心」のところでは、キリストの栄光を求めているのではなく、「自我の拡張」のために奉仕してしまう。


「自我の弱化」の方向に自己愛が働くときには、牧師は教会において「できるだけ安楽な道」をとろうとするだろう。


そこで牧師はできるだけいろいろな理由を設けて、職務を担い、キリストの影響力を広げることを、避けようとする。


そのようなことに力を注ぐことは、「苦労が多く、自分自身が変化を求められる」ことであるため、自我の防衛にとっても非常に不都合だからだ。


上記の二つの方向性において、どちらも「教会形成」の妨げになる。


前者は牧師の自我が強化されて、キリストの栄光を妨げ、後者は自我が弱化されて、キリストの御業の進展を妨げる。


自我の強弱はそれぞれ、人によって異なっているが、どちらにしても「自己愛」の介入により、教会形成は阻まれやすくなる。


信徒にとって「自己愛」はどう働くだろうか。これも牧師の自我の事例と、共通するものがある。


第一に、信徒は教会に出席することで、「自分の特別さ・卓越さ・優越感」が満たされることを求める。


このような言葉を聞けたときは喜び、そうでないときは「恵みがない」と感じる。


礼拝によって自分の自我が強化されることを求め、「神が素晴らしい」のではなく、「自分が素晴らしい」ことを確認しようとして、礼拝に出るようになる。


「神の前に、自らがまったくの無であることを認識する」ということがないため、強化された自我がやがて、多くの困難とトラブルを自他に招来してしまう。


第二には、教会に出席するのは「自分が癒されるため」であって、「教会の歴史を担うためではない」という意識に支配される。


教会で自分が癒された結果として、神の恵みに応えて教会での働きを担う、という「神への応答」の部分が、「自己愛」によって妨げられる。


教会で伝道や職務について語り合うときにも、「できるだけ自分が癒されることに浸ることができる方向」に教会を導こうとし、「自分が働きを担う」方向は、否定しようとするだろう。


どちらにしても、教会形成は妨げられる。キリストに栄光が帰されず、教会の歴史は前進しない。


「教会を形成する」とは「教会に集う私たちが、キリストへの献身を深めていく」ことであると考えると、それを阻む最たるものは、悪い意味での「自己愛」であることを思わずにはいられない。


教会が「キリストの教会」となるということは、「自己愛が清められていく」という課題と、相即の関係にあるのだ。


要するに、教会の牧師と信徒において、「自己愛が清められておらず、この課題が神にあって触れられることなく、この課題を神に差し出すこともないなら、教会形成もまた進んでいない」といって過言ではないのではないか。


それくらい、ここは教会形成の「急所」を示しているのではないかと感じる。


自己愛の課題性を、今回は大枠として描いてみた。


少し踏み込んだ内容を、また記してみたい。






齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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