神は現実や物事を説明するための装置、ツールなのか。
だれでも、納得できないことがある。
どうしても解釈できない出来事を経験する。
消化できず、飲み込むこともできず、心と頭の内になにか重い塊のようになって、しこりとなって、残り続ける、そういう体験がある。
そういうものを抱えるとき、自分ではもはや理解できない現実をなんとか咀嚼するために、説明するための道具が必要となる。
これが、人類が編み出してきた思想の数々である。
哲学や宗教の教えの体系は、現実を説明するための道具を豊かに与えてくれる宝庫である。
これに触れれば、大抵の事柄は納得することができるし、解釈することができる。わけのわからない現実を割りきって、すっきりすることができる。
だが、神は思想なのか。神は教えの体系に過ぎないものなのか。神は観念なのか。神は現実を納得するためのツールなのか。説明装置なのか。
神と思想を、はっきり区別してみよう。教会や書物で学ぶことができる教理、説教、神学、思想と、神ご自身を。
すると、神は教理ではないし、神は神学でも、説教でさえもないことがわかる。つまり、神は思想ではない。
これらの教えや思想は神を指し示しているが、決して神そのものではない。神の奇跡として説教と神が一体となることはあるが、基本的には区別すべきだ。
神は説教や教えを通して働かれることは真実だ。これがなければ、教会は存在意味がない。
だが、説教や教えはむしろ、神の道具、神の器に過ぎない。神がそれを用いなければ無に帰するしかないものである。
聖書の語る神は、「生ける神」である。単なる思想ではない。
神は現実に生きて働くのだ。
霊的に、精神的に、物質的に、関係的に働かれる。つまり、全現実のなかで働かれる。思想の面ばかりではない。
神に救われるのは、全体として救われることである。
消化できない現実を納得することができるが、状況はなにも変わらない、考えは変わったが、ほかはなにも変わらない、なんていうものが救いだろうか。
この私という存在が全体として救われないなら、本当の救いではないのではないか。
神の言葉を信じ、神にひたすらに信頼することによって、私たちは自分の生きる現実の全体が変容するのを経験する。
望みのないところに、光が射すのを感じる。命の充実と、喜びの日々を現実に経験する。
神は説教、教えを通して働かれるが、その働きは私たちの生きる現実全体に及び、私たちを変革し、存在を丸ごと救うのである。
思想は、神の道具に過ぎない。思想は神ではありえない。
聖書は、御言葉を「聞くだけで行わない」ことについて警告している。
聞くだけで行わないとは、ただ単に説教や聖書を、思想としてだけ聞いて、神御自身に向かわないことではないだろうか。
説教や教えを言葉として聞くだけで、思想としてしか受け取らず、その指し示す神の方に自分自身は向かわない。
それが「聞くだけで行わない」ことである。
聖書、説教、教えを聞くことを通して、神御自身に全身全霊向かう。これにより私たち自身も、教会も立つのである。
神御自身にのみ、救いはあるからである。説教や教えは、ただその役に立つ道具なのだ。