神の働きと自分の働きを、どのような割合で認識しているのか、というのは大切な事柄だ。
この認識がどうであるかによって、働きに大きな影響が出てくるからだ。
なにかの働きをしているとき、それを神との関係でどうとらえているか。
いくつかの類型をあげてみよう。
①神0%、自分100%
神はまったく働いていない、自分がすべてにおいて働いている、という認識。
これは、まだ信仰を与えられていない人の認識と言える。自分にすべての働きを帰すので、その結果も百%自分の働きの成果であると考える。
よくできたときは自分の功績であり、失敗したときは自分の責任。
この認識では、「すべての栄光を自分に帰する」あり方になる。
このあり方は「自分自身に依り頼む」あり方だ。自己責任を完全に引き受けるという意味においては立派だが、自分の人生から神の働きを完全に閉め出してしまっている。
たとえとしては、自分で地図を見て、自分の力で車を運転して目的地に行く、という形。
②神50%、自分50%
神と自分が協力して働いている、という認識。
神が働いて自分に力を与え、その力で自分が働く。
自分が働き、神はそれをサポートしてくださり、結果をだす。
結果が出た時には神にも栄光を帰するが、「自分もよくやった」と言える。
これは、神に助けを求め、助けて頂きながら、自分がしっかり働く、という意味において、「神人協力説」と言われるあり方。
バランスが取れているように見えるが、しかし「自分に半分は栄光を帰する」考え方であることから、「完全に神に依り頼む」あり方ではない。
よって、結果的に神の働きをかなりの程度閉め出してしまっている。
たとえとしては、助手席の神にナビや助けをもらいながら、自分で車を運転して目的に行くという形。
③神100%、自分100%
神は完全な仕方で働いてくださる、しかし同時に自分も完全に働いている、という在り方。
神と自分が同時的に、完全に力を発揮している、という認識。
しかし、働きをしているときに「自分100%」の意識でいると、実践的には結果がでたときに「神にすべての栄光を帰する」ということになりにくい。
これは理論的にはまったく正しいように見える。
「神も働かれたが、自分も頑張ったのだ」ということになる。「自分にも栄光を受ける権利がある」という意識が出てくるのを避けられない。
結局、「神人協力説」の在り方から、逃れ出ていない形になる。
実践的には、神の働きをかなりの程度閉め出してしまうことになる。
たとえとしては、運転席になんとか二人で乗って、二人で同時に運転している形(そんなことは事実上は不可能だが)。
④神100%、自分0%
神が完全に、100%働いておられる。自分はそれを見ているだけ。神が主人公である劇を、自分は観客として見ている。
神がすべてにおいて働き、すべてにおいて栄光をあらわされる。自分はその栄光を目撃して、その栄光の全部を神にお返しする。
ここにおいて、初めて神の働きが完全な形であらわされる。自分はまったくのゼロになることによって、神にゆだねきり、まったく依り頼むことによって、すべての栄光を神に帰することができるようになる。
たとえとしては、運転席に神が座って目的地まで神ご自身がすべてにおいて運転してくださる。自分は車の後部座席に座って、神が見せてくださる景色を見ながら、その神の運転にすべてをゆだねて信頼しているイメージ。
どんなに奉仕に打ち込んでいるときも、「それをしてくださっているのは、可能にしてくださっているのは神である」ことについて、明確な信頼と認識がある。
自分のはたらきがどのような人間的評価を得ているとしても、それについて一顧だにせず、ただ神の力と働きにまなざしを注ぎ続けている。
私たちは神の働きをしているとき、どのような認識でそれに取り組んでいるだろうか。
私の理解では、④だけが神にすべての栄光を帰することができる考え方だ。
①~③の考え方をしていると、神の働きを無意識のうちにも閉め出してしまい、神の栄光を見ることができないような形になってしまうように思う。
御言葉に照らしつつ、自らの働きについても反省し、「自分は日々の働きにおいて神にすべての栄光を帰しているだろうか」と考える必要がある。
神がすべての栄光をお受けにならないならば、神の働きもまた私達の罪が妨げてしまうことになるのではないだろうか。