教会の将来を考える時、暗澹たる思いにとわわれがちになる。
その理由は、教会もまた人間としての「因果律」に支配されており、
統計やデータやバイオリズム、人間の原罪や思惑のもとにあり、
そこから離脱することは不可能に思えるからだ。
そういった暗澹たる思いを払拭するには、
因果律に支配された私たちではなく、
因果律を支配する神に目を向ける以外にない。
そういった原点を思い出すために、記した。
これも「言い過ぎ感」があるかもしれないが、本質をえぐるためにそういった言い方をしている。
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教会が信徒を育て、
信徒から献身者が起こる。
献身者が神学校で育ち、
伝道者として派遣される。
良き伝道者は教会を育て、
新たに信徒が起こされる。
もし教会で信徒が育たないなら
献身者も起こらない。
仮に献身者が起こっても、
神学校で献身者が育たないなら、
伝道者は派遣されない。
伝道者が派遣されないなら、
教会は育たない。
仮に伝道者が派遣されても、
良き伝道者でないならば、
新たに信徒は起こされない。
もし教会も神学校も負の因果律に囚われているなら、
もし人間が因果律に従う以外にすべがないとするなら、
救いはどこにもありえない。
人間は因果律の奴隷であり、その超克は不可能だから。
しかし、因果律を超越したお方がおられるなら、
その方はデータも統計も原罪も思惑をも覆すことがおできになるなら、
石ころからでもアブラハムの子らを起こす救い主、
無から有を造られる創造主がおられるなら、
その方がすべて因果律を超えて、
将来への一筋の道となる。
そのお方以外に救いはない。
教会にも、キリスト者にも救いはない。
希望もそこにありはしない。
イエス・キリストにしか、救いはない。
このお方にしか、希望はない。