「教会教義学」を読むと、バルトがカントをはじめとした哲学をも非常によく読み込んでいることがうかがえる。
バルトは教義学を構築するうえで、かなりの用語を哲学から借用している。
「現実存在」「実存」「アプリオリ」など、実存哲学やカント哲学からの借用が多い。
一方、バルトもまた時代の子として、知らず知らずのうちに、哲学用語の制約のもとに神学していることを、否定することはできない。
私が読んだ範囲では、バルト神学を最も深く規定している哲学用語は、「主観・客観」ではないかと思う。
バルトは、「客観的啓示」とか「主観的~」といった用語を使いながら論じることが非常に多いし、彼自身はこれらの用語について、教義学者としてそれほど批判的に検討することをしていないようにも見受けられる。
つまり、バルトはキリストの御業を「客観的」な領域、聖霊の御業を「主観的」な領域として大きなフレームワークを構築して、区別しながら、神学を展開していく。
ところが、この「主観・客観図式」と言われるものは、ルネ・デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の命題からくる、近代哲学を最も包括的に支配したもので、バルト神学もまたこの図式のおおいなる制約のもとにあるように思える。
つまり、神の業を論じるうえで、「主観・客観図式」は非常に役立つものだが、この図式を安易に取り入れすぎることで、かえって独自の神学を展開することができなくなる、ということも起こる。
たとえば、キリストの業を「客観的」な領域での神の啓示として整理することはできるが、キリストは客観的ばかりか主観的にも内在されるし、「主観・客観図式」ではとらえにくい、「我と汝」の対話的関係性のなかに臨在されるお方だ。
同時に、聖霊なる神もまた、「主観的」に私たちのうちに働かれるばかりか、客観的に外から私たちに注がれるお方であり、それだけでなく人間と物質、自然、人間関係や組織や制度といったところにまでその影響が広げられていくものだ。
そうすると、「主観・客観図式」を採用しながら神の御業を論じていくということ自体によって、神の業について「見過ごしにされる」部分や、「とらえることができない」部分、「影となってわからなくなる」部分が出てくるのではないか。
バルトは、デカルト的図式である「主観・客観図式」を、相当程度に前提として神学を構築しているため、この図式に縛られて、展開することができなかった領域が広くあるのではないか。
「主観・客観図式」という哲学のフレームワークを、まったく別のパラダイムで乗り越えることができれば、おそらくバルト神学をも超えていく道が見えてくるのではないかと思う。
たとえばの話だが、東洋思想には「主観・客観図式」ではなく、「全体論」や「流体論」、「場所論」「身体論」と言えるような、西洋哲学の伝統とは異なる図式のフレームワークがある。
西田幾多郎の哲学は、「場所論」を展開したことで有名だし、気功などは「流体的」な空間認知を考えるものだ。また、禅仏教などは、「身体論」としても、学ぶところがあるように思う。
これらは、もちろん西洋からすれば「異教」の哲学であるわけだが、認識的な「フレームワーク」を抽出して、批判的に応用しながら用いることは神学的にも可能だ。
神学がおかしな領域に踏み込んでしまい、「日本化」しすぎる大きなリスクがあるが、細心の注意を払いながら、こういったリスクをも取っていかなくては、新しい神学的認識などは見出すことはできないだろう。
かなり突飛な発想になるかもしれないが、こういった「主観・客観図式」ではない、別のフレームで神学を構築することで、バルト神学が展開できなかった領域まで、神学的議論と認識を拡大することが可能であると思う。
こういった作業は、日本のコンテクストでは「京都学派」といわれる方々が以前から行っているが、なお十分な可能性の開花には至っていないように感じるし、少なくとも「教会的神学」にはまったくなっていない。
また、バルト神学に対しても有効な対論ができるほどのものは、出て来ていないように思う。
「主観・客観図式」自体に含まれている問題性が、バルト神学をもかなり規定しているとすれば、バルトを超える新しい神学は、この図式自体を新たに有効な形で問いに付して、別のパラダイムから出発するところに、営まれるところがあるのではないか。
もちろん、別のフレームを使えば、別の課題と問題に突き当たるし、それもまた時代的・相対的なものに過ぎないものとして、やがて批判されて消えて行く。
しかし、その新しい踏み出しによって、見えてくる新しい神学的風景があるなら、その風景によって導かれる人が一人でもいる可能性があるなら、それはやるだけの価値があるのだ。
以下は京都学派関係の著作。内容はそれぞれ深いものがあるが、バランスも含めていろいろな意味で、神学的にうまくいっているとは言えないと個人的には考えている。更なる新しい展開が待たれているのではないか。