カール・バルトの神学を「超える」という挑戦的なタイトルで、書いてみたいと思う。
ここに書くのは、バルトの神学を批判的に乗り越えていくための道を検討することで、バルトを超える神学自体を構想することではない。
おそらくその課題は、専門の職業的神学者にしかできないことだろうし、そのような神学の著述をすることは、いまの私には到底不可能だ。
ただ、バルトを超える道について、ごくアウトラインだけを、考えてみたい。
まず、バルトの神学は、後に来た世代である私たちが「超える」ことが極端に難しいという事実をまっすぐに受け止める必要がある。
彼を「超える」からには、「教会教義学」の内容について、少なくともその本質と概要だけはしっかりと理解しないと、「超える」話さえも始まらないが、実はこれだけで非常に難しい仕事だ。
これをするだけで、バルトに取り組み続けたとしても、数年間はかかることはほぼ確実だ。
ほとんどの場合、バルト神学を理解する以前のところで早合点し、バルトを理解したつもりになって批判してしまうので、その批判はほとんど当たらないものとなる。
北森嘉蔵のバルト批判は(北森先生には大変申し訳ないが)、その最たるものではないか、と感じる。
彼はバルトが「第一戒」を自らの神学の中枢に据えた、と考えてバルトを「律法的」として批判を展開したが、ほとんど急所をつけなかったように思うし、北森先生ご自身の神学を裏付けるだけの結果になってしまったように感じる。
また、バルトは宗教改革者を非常に注意深く研究して神学を構築しているため、いたずらにバルトを批判すると、同時に宗教改革者や善き教会の伝統まで批判することになり、墓穴を掘るケースも多い。
つまり、バルトはある意味、私たちが「批判すべき」神学者ではなく、「超えていく」べき神学者であって、バルトの語っていることにひたすら真摯に向き合ったものだけが、この仕事に従事することができるのだ。
ほとんどの「バルト批判」は、バルトの言葉の「聞きかじり」をして、「こんなことを言っているのはけしからん!」というものになっているが、バルトは別のコンテクストでは、真逆のことを語ったりもするため、ほとんど意味のない批判になってしまうことが多い。
バルト神学の全体像をとらえたうえで、これを「超える」道を見出すことが、教会と神学に課せられている使命だろう。
ルドルフ・ボーレンが「聖霊論」の視座から、バルトを継承しつつ「超える」道を模索して神学を構築したことは、重大な意義がある。
ボーレンはバルト神学が、「キリスト中心」を徹底するあまり、「聖霊論的」な領域を切り捨てて行くような傾向を示していることを見抜いて、そこに新しい展開可能性を見出したのだ。
おそらく、ボーレンがその道を歩んだように、バルト神学を超える道は、彼の神学の中心である「キリスト論的集中」を、方法論的に乗り越えていく以外にないように思う。
ボーレンは、「キリスト論的集中」を「聖霊論」的に超えようとした。
しかし、仮に神学的に「聖霊論的集中」をしたとしても、なおそこに対する「超える」契機は残るだろう。
おそらく、バルト神学を「超える」のは「聖霊論的」にではなく、「三位一体論的」にしか、ありえないのではないか、と思う。
バルト神学に見られる「キリスト論的集中」の「かたより」と「偏向」を、「三位一体論的」な「バランス」と「調和」、「一致と区別」の視座から乗り越える、という道だ。
これは神学的に未知の領域であるため、私もまだそれがどのようにしてなされるのか、よくわからない。
ただ、中世カトリック教会が「神論」に集中し、近代から20世紀までのプロテスタントが「キリスト論」に集中した。
そして、現代の多くのペンテコステ派などの教派が「聖霊論」に集中しているとする。
とすると、これから後に来る「バルトを超える新しい神学」は「三位一体論的統合」の方法論からしか、歴史的には出てこないのではないか。
これは、非常に壮大な展望であるため、ほぼその予測は不可能だが、もしバルトが生きており、彼自身も満足が行くような「超える」道があるとするなら、それは三位一体論的方向だけではないか、と感じる。