カール・バルト 最大誤解:「神の言葉となる」ことについて

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...

 

多くの保守系のキリスト者の方から、「新正統主義(弁証法神学)はまずい。というのも、聖書について〈神の言葉である〉のではなく、〈神の言葉となる〉と教えているからだ」と言われる。

 

「バルトの神学はこういった点について不徹底だったため、教会に悪影響をもたらした」とされ、「だからこそ、逐語霊感説という最も保守的な教理を守らなくては、教会は立つことができない」と言われる。

 

私自身が問いかけたいと思っていることは、こういった議論をされる方は、バルトの『教会教義学』のなかの「神の言葉論」、特に「聖書論」を全部読んだのだろうか、ということだ。

 

おそらくだが、こういった議論をされている90%以上の方々は、「聞きかじりの批判」をしているに過ぎないと感じる。

 

現実に『教会教義学』の「神の言葉」論のところを全部読めば、こういった批判はまったく該当しないことが了解される。

 

バルトの神の言葉論からは、以上のような議論は的が外れていることが明白だからだ。

 

ほとんどの「聖書は神の言葉となる」ということについて「ダメだ」という方々のバルト神学の理解は、バルトが論じているなかでの「主観的」な領域だけにとどまっているのではないかと思う。

 

つまり、「キリスト者が聖書を読んだり、説教を聴いたりしているときに、聖書のメッセージが神の言葉として聴取される瞬間が与えられる。

 

そのとき、そのキリスト者にとって聖書が神の言葉となっている」という点についてのみ、「神の言葉となる」ということを理解している。

 

以上のロジックは範疇としては、「聖霊論」的な部分ということになるが、これはこれとして真理の一面だ。

 

ところが、以上の理解はバルトの神の言葉の神学の「部分」でしかない。

 

バルトが最も重要として重んじているのは、神の言葉の「客観的」な部分なのだ。

 

つまり、「イエス・キリストが現実に肉体をもって地上に来られ、神の救いの業を成し遂げられた」という「イエス・キリストご自身とその御業」という「客観的部分」こそが最も重要な「神の言葉」である、とバルトはしている。

 

そして、こういったキリストご自身と御業によって聖霊なる神が人々に注がれ、キリスト者を教会へと召し出し、救い、神の民へと変革してくださる。

 

聖霊を受けた人々がその恵みの歴史を「記録」して「聖書」が編集され、教会が聖書を通して「宣教」する業によって、世界へと福音を宣言していく業が継続される。

 

これにより、多くの人が「教会の説教」を聴くようになり、救われることになる。

 

つまり、「キリスト者が聖書や説教を聴いて、それを神の言葉として受ける」ということは、「神の啓示」の最後の部分の「主観的」領域であり、それ以前に「イエス・キリスト」、「聖霊の注ぎ」、「聖書」、「教会の宣教」がある、という重大事実をバルトは強調しているのだ。

 

究極的には、バルトは「イエス・キリスト」を「客観的啓示」そのものとして讃美することを、自らの神学の絶対的中心として考えている。

 

これらの「客観的・霊的事実」を最大限に重んじるのがバルト神学の特徴であって、これを理解することなく表層的に「神の言葉になる、はダメだ」というのは、まったくバルト神学の批判としては機能しないし、事実とも異なっている。

 

「神の言葉となる」というのは「キリストの受肉」、「聖霊の注ぎ」、「聖書の執筆や編集」、「教会の宣教」、「キリスト者の信仰」の「すべての領域」で考えなくてはならないことであって、最後の「キリスト者の信仰」の部分だけを考えていては、まったくバルトの意図をとらえそこなっているとしか言いようがない。

 

特に説教論においても、「神の言葉となる」という出来事は、「説教の聴取」という会衆の次元ばかりか、「説教の準備」をする牧師の次元においても起こっている、その両者が出あう「礼拝」においてこそ、「神の言葉となる」ことが起こる、という非常にトータルな理解がバルトの論述にはあると私は受け止めている。

 

つまり、「神の言葉となる」ことは、「主観的領域」というところにおいても、「キリスト者が説教や聖書を聞き、読んだたとき」ばかりでなく、「牧師が準備しているとき」「実際に語られた礼拝の聖なるとき」もあり、さらには「会衆が礼拝の準備をしている週日のとき」もある。

 

以上のような広い領域のなかでバルトは「神の言葉を聴く」「神の言葉となる」ことを論じている。


ただキリスト者個人が「聖書や説教を聞いた時」という、狭い領域での議論ではないのだ。

 

もし「神の言葉となる、という神学はダメだ」という論で、バルト神学を論破されたいという場合は、『教会教義学』の「神の言葉」についての一連の著作は最低でも一度は通読してから批判して頂きたいと願っている。

 

そうでないと、いつまでもバルトが語っていた事実と異なる情報が増えるだけとなり、非建設的な状況が拡大するだけになるだろう。

 

バルトの書物は「とにかく長い」ものなので、読みたくないという気持ちはわかるが、少なくとも本当に批判すべきというなら、該当している著作を全部読むのは、「基本的礼儀」として最低限、必要なことだと思う。

 

バルトの本はほんとど、非常に分厚くてしかも品薄となっており、また高価であるため、図書館で読むことをお勧めしたい。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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