神学生時代の最初の二年間は、私の頭のなかはほぼすべてが「バルト神学」だった。
明けても暮れても『教会教義学』を読み、これについて考え続けていた。
わたしはバルト神学に完全に酔っていた。これほどすばらしいものは他にないと考えていた。
ところが、今現在、私はほとんどバルトは読まない。ときどき、比較的短いものを読むだけだ。
牧師として奉仕する実践の現場では、バルトの書物は「重すぎ」「長すぎ」で、なかなか読みにくいという実際的な面もある。
しかし、内容的な部分でも、ほのかにバルト神学の「弱点」のようなものを感じるようになってきた。
その弱点というのは、バルト神学に最初から存在した、「神と人間との距離」という問題だ。
バルトは『ローマ書講解』で出発したが、この書物の原理は「神と人間の無限の質的差異」に基づいている。
つまり、神と人間の距離を近づけることで神を矮小化した近代プロテスタント神学に対する「否!」をつきつけているのだ。
シュライエルマッハーを中心としたそうした神学は、神を人間に近づけるあまり、神を人間の側に合わせて小さくしてしまった、だから改めて神と人間の「違い」を徹底的に強調する必要がある・・・それが彼の処女作の問題意識だったと思う。
この問題意識が展開して、やがて『教会教義学』にまで発展していくが、後期バルトは神と人間の距離をあまりにへだてるような思想傾向は捨てて、宗教改革的なバランス感覚に満ちているとわたしは思う。
しかし、「処女作」にはその思想家のすべてが萌芽として秘められていると言われることには、真理がある。
バルト神学の基本には、「神と人間の断絶」がやはり最後まである。
そして、ある意味ではこれがバルト神学の弱点なのではないか、と感じるようになってきた。
「弱点」というのは、「日本という文脈で伝道していくうえで」の弱点、という意味だ。
つまり、日本で牧師やキリスト者として信仰の実践を行う現場では、「神と人間は断絶しており、神は人間とは違うし、神と人間の間には距離がある」という考え方だと、なかなか通用しない場面が多い。
いや、通用しないというよりも、こうした考えだと信仰の実践をしていくのが非常に「きつくなってくる」のだ。
牧師やキリスト者としてキリスト教に対してあまり好意的でない社会で働いて、くたくたに疲れているとき、「神とわたしの間には距離がある」という考えは、「平安」や「安息」になりにくい。
むしろ、「あなたは神の御心には達していないから、ダメだ。信仰が足りない」というメッセージが含まれているように感じられる。
バルト神学は理論的にまったく正しいと思うし、宗教改革的にも正しい路線を歩んでいると思う。
しかし、日本の牧師やキリスト者の現場での「実践」として、それがどこまで適合的かと考えると、心もとなさを覚えるのだ。
というのは、日本社会でキリスト者として生きることには、社会との距離をいつも感じさせられ、自分は日本では異分子だ、という思いがつきまとう。
そういう日本人キリスト者が、「神と人間の間には距離がある」と言われるのは、神とも距離があり、社会とも距離があるということになり、「非常にきつい」のだ。「しんどい」のだ。
キリスト教が社会に溶け込んでいる欧米の文脈なら違うかもしれないが、日本においてバルト神学はこうした難点があると思う。
むしろ、「神と人間は人間が考えている以上にずっとずっと近いのだ」と言ってくれる神学の方が、さびしく寄る辺ない思いをしている日本人キリスト者には、しっくりくるように思う。
このテーマは、また改めて深めていきたい事柄だ。