カール・バルト バルト神学の弱点②

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...


最近、自分なりにではあるが、自分が学んだ範囲でのバルト神学を総括したいという心の動きがあるのか、バルトについてネガティブな部分を書きたい思いがある。

 

誤解しないでいただきたいが、私は洗礼を受けてから今日に至るまで、自分の神学の根底はバルト神学だと考えているし、彼の神学について大部分において肯定的に考えている。

 

ただ、これから自分なりの一歩を進めていくために、ネガティブな部分について整理しておきたいので、ここに書かせていただいている。


バルトが好きでたまらないという方には恐縮だが、お許しいただきたい。

 

バルト神学の弱点について思う第二点は、彼の神学が「神」を過度に強調しすぎたのではないか、ということだ。

 

これは、もちろん彼の神学の最大のポジティブ要素でもある。


彼は「人間」ばかりを強調してきた近代神学が、結局人間の感情に流されて妥協に次ぐ妥協を重ねていく有様に苦しみ、「問題なのはただ神であり、人間ではないのだ」というメッセージをとてつもない情熱で叫んでくれたのだ。

 

人間の罪の泥沼に沈もうとする混乱を経験していた人々にとって、彼の叫びはまさに神の言葉として響いたといえる。

 

しかし、この彼の神学の最大のポジティブ要素が、実は別のコンテクストにおいてはネガティブに反転するものではないのか、ということを考えるのだ。

 

つまり、現代の日本のような、キリスト教会が日本のコンテクストに広く深くはまだ土着していないような文脈だと、彼の神学の叫びは日本の土壌から教会を遊離させてしまいやすい。

 

「大切なのは神であって人間ではないのだ」というメッセージは、キリスト教的世界があまりに人間臭いものになってしまったヨーロッパの土壌では、素晴らしい解放の光を放ったと思う。

 

だが日本という教会の文化が深くは根づいていないところだと、彼の叫びが超越的であればあるほど、それは現実的には「会衆席のうえをすっぽ抜けていく説教」になりがちになるのではないか。

 

つまり、日本の文脈だと、「神を強烈に強調する神学」が、それを受け取ったところが「文脈から外れた、仮現論的信仰」に変質してしまいはしないか、という危惧があるのだ。

 

もちろん、こうしたことは彼の神学を誤解することからくることは明らかだ。


彼の神学を真実に受け入れるなら、こうしたことにはならないと思う。


しかし、こうした傾向を引き出すような「なにか」が彼の神学にあるのも確かだと思えるのだ。


日本においては、バルト神学がするよりも、もう少し「人間」の側に強調点を置いた神学の方が、「日本伝道」という至上命題のためには、貢献するところがあるのではないか、という思いがする昨今である。


ところが、バルトは自らの歩みの最期のところで、「聖霊論」への示唆を残している。


『神の人間性』という論文で、それまでの神学的足跡を新たにするような形で、「神と人間の距離」をまったく塗り替えるような、「聖霊論」への示唆を示している。


ここまでイエス・キリストをひたすらに考え抜いた人が、最後に新しい地をのぞみ見ているような思いが垣間見られるようで、バルトの認識の広さと神の懐の奥深さをおぼえ、胸が熱くなる。


彼は自らの神学の弱点をも把握したうえで、これをさらに継承していく道をも示し、後に続く者たちへの栄養として自ら墓に横たわったのではないだろうか。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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