バルト神学の長所について再度論じたい。
彼の神学の大きな特徴に、「神の客観性の強調」ということがある。
「近代自由主義神学」は、「信仰の主観的側面」を非常に強調した。
バルトは、「人間がどう考えようと、どう信じようと、関わりなく厳然として実在しておられる、恵み深み神」を考え続けた。
つまり、「神学において大切なのは、人間ではなくあくまで神なのだ」ということだ。それをさまざまな論理をもって叫び続けた。
それとは逆に自由主義神学は、「人間が神をどう考えているのか、それこそが重要なのだ」という形で、人間の側の神への理解や解釈、意識などを第一の課題とした。
バルトは、自由主義神学が「神」のことを語りつつ、結局「人間学」となってしまうことを憂慮した。
神が人間的次元に矮小化されてしまうなら、人間自体に疑問符がつきつけられる困難を迎えるとき、その問題が克服される道が失われる。
バルトにおいては、これは具体的に第一次世界大戦という形で襲いかかった。
人間の主観を語ることに熱中する自由主義神学の、彼自身の教授たちが、みな戦争に賛成する姿を見て、「この神学ではだめだ」と考えるにいたった。
人間そのものが問題化するときには、人間を超越する問いの立て方や、人間を超える存在が示されない限り、問題は解決されない。
バルトは、人間そのものが問題となってしまった時代に、「人間はもともと問題と疑問だらけのものだが、神は確実であり、神こそ真理なのだ」と語ることで、人間に失望している人々に神の光を告げ知らせた。
それが彼の処女作『ローマ書講解』の意義だと言える。
このように、「神の客観性」を強調し続けることで、バルトは人間を超越する次元からの救いを描いた。
神を人間的次元で論じることは、一面においては神が「身近な存在になる」という長所がある。
これは同時に、「人間とは絶対的に異なる、神ご自身の力と権威」が希薄になる、という決定的な弱点をも含んでいる。
イエス・キリストというお方は、罪人の身近で御業をなされたが、同時に罪人とは完全に違う世界を見ておられ、違う世界の力をもって救いをなされた。
この「類似性」と「差異性」の両者に、イエス・キリストの真理がある。
バルトは、「神は人間と同じようなものだ」という方向に進み行く人々に対して、人間を超越する神の力を示すことで、当時の教会と牧師たちを励まそうとした。
人間には希望がなくとも、神にはそれがあるのだ、ということを言いたかったのだ。
信仰生活の局面でも「自分の側としてどう神を信じているか」という主観的側面と、「信仰に関わりなく、神が私たちに臨んでくださる、無条件の恵み深さ」という客観的側面の両方がある。
信仰の「主観面」と「客観面」をしっかりと把握してこそ、信仰生活は安定する。
バルトは、神の無条件の恵み深さという神の御業の「客観面」を強調することにおいて神学的天才であったし、彼の教えは教会にとって非常に重要な財産であり続けるだろう。