カール・バルトの弱点の記事を自分なりにいくつか書いたので、今度は彼がなにを問題としたのかについて考えたみたい。
バルト神学には「近代自由主義神学」に対する批判が根底にある。
「自由主義神学」は、「正統主義神学」に対するアンチ・テーゼだ。
「正統主義神学」は、教会の「教理」に対する忠誠のもと、営まれる。信仰告白や信条が語る教理を、可能な限り広く深く展開することがそのモチベーションにある。
一方、「自由主義神学」は教会の「教理」に対する懐疑や批判が前提としてある。
教会の教理を、なんらかの形で不十分な、ネガティブなものとして考え、それに対する別の選択肢を模索するものだ。
前者の弱点は、教会の教理にどこまでも拘束されるため、思考が固定化してくる面がある。
生命的な信仰の躍動感が消えて、「スコラ主義」的になってくる。
長所は、少なくとも教理を守るという動機が強いため、「教会形成」においては、建設的に働くところだ。
後者の弱点は、教会の教理を批判するあまり、ついには「教会の否定」や「信仰の否定」にまで行き着きかねない。
教会破壊の働きをしうるものになる。長所は、教理による拘束を逃れたところから新しく見える風景を提示することで、新しい視点を導入することができる。
バルト神学は、「正統主義神学」と「近代自由主義神学」を、「昇華」したものだ。
ここから、「弁証法神学」という呼び方が生まれている。
「弁証法」とは哲学者ヘーゲルの方法論だが、ある命題と、それを否定する反対命題が葛藤することを通して、これらを乗り越え、昇華した第三の命題が生まれてくる、という論理の流れを描いたものだ。
バルトは、「正統主義神学」の長所と、「自由主義神学」の長所が共に活かされるような、昇華された神学を生みだした。
それが「弁証法的」であるから、「弁証法神学」と呼ばれる。
バルトは、正統主義神学をも建設的に批判し、自由主義神学も建設的に批判するところで神学を営んだ。
だから、ある意味では両者から叩かれ批判されるし、両者から「いいとこ取り」され、利用される宿命のもとにある。
バルトの後の「正統主義的」な神学者は、彼のそうした部分を利用し、「自由主義的」神学者は、彼のそうした部分を利用した。
お互いに、「バルトはこう語っている」と言うが、バルトはその両者を「昇華」した立場から語っているのだ。
バルト神学の分量はとてつもなく多いため、「バルトはこう言っている」という短い引用はほとんど意味がないと言える。
バルトは別の文脈では、まったく別のことを語っていることもあるからだ。「どんな文脈で語られている言葉なのか」ということが、とても大切だ。
バルトの立場は、「正統主義」と「自由主義」が「弁証法」的に「昇華」されたものであると認識して読まないと、結局彼の神学を自分の立場のために「利用」するだけになってしまうのではないか、と懸念される。