カール・バルト 「福音」としての「選び」

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...


バルトは、『教会教義学』のなかで従来の教義学から新しい一歩を踏み出し、新境地に踏み込んでいる。


そのなかでも、特にバルトの描いた「選びの教理」は、その斬新さにおいて卓越している。

 

カルヴァンの路線を引き継ぐところでは、選びの教理は「神が救われる人間を天地創造の前から選んでおられる」という教えとして語られる。


つまり、人間の信仰の決断に先行して神の選びがあるのであり、人間は神の絶対的な選びの意志のもとにある者に過ぎない。

 

「自分の意志や自力による救い」を最後まで抜き去り、「恵みのみによる救い」を徹底するところに、従来の選びの教えの意義がある。

 

しかし、バルトはこうした選びの理解は非常に硬直化・固定化・静的されたものであるとして批判する。

 

むしろ、神の選びはダイナミックなものであり、「すでに決まっていることをただ進めるだけ」というような決定論的なものではない、とする。

 

バルトは選びの教えにおいても、「キリスト論的集中」の方法論でまっすぐに切り込んでいく。

 

神が第一義的に選んでおられるのは、私たち人間というよりも、御子イエス・キリストなのだ、というところから出発する。

 

神はキリストを選び、ご自分の救済の計画を成就された。キリストの十字架と復活の御業のうちに、「選びと遺棄」が示されている。

 

つまり、キリストは神の「選ばれた」御子として遣わされたが、人類の罪を背負って十字架につけられた。


人間の救済のために、「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、命を犠牲にされた。

 

まさにキリストこそ私たちに代わって神によって「捨てられた」者、神によって「遺棄」された者なのだ、とバルトは宣言する。

 

私たち人間が神によって、罪のゆえに捨てられる以前に、キリストが罪を担い、神の遺棄を引き受けてくださったのだ。

 

キリストが私たちに代わって神によって捨てられてくださったことで、神は「人間が神によって捨てられてしまう」という罪による地獄的な状況を、消し去ってくださった。

 

つまり、「自分は神によって捨てられている。自分は神に選ばれていない。


自分は神によって遺棄されている」という人間の状況は、キリストによってすでに勝利されている「影」のようなものとしてしか、存在しなくなった。

 

「神による遺棄」という地獄的状況は、キリストによってすでに打ち破られた。


つまり、神はそのような「捨てられる」可能性を、ご自分のうちに死の苦しみをもって引き受けてくださったのだ。

 

「神に捨てられる」「神によって選ばれない」という可能性は、人間が愚かにもキリストの十字架の御業を受け入れず、信じないことによる。

 

つまり、すでにキリストによって抹消されているはずの「遺棄」の死の影を、キリストを認めないがゆえに、愚かにも改めて引きずり出し、自分をその闇にさらしてしまうのだ。

 

バルトは「イスラエル」と「教会」、「選ばれない人間」と「選ばれた人間」の関係性を論じながら、「神によって選ばれない」という現実は、「不可能の可能性」なのだ、とする。

 

つまり、キリストによってすでに勝利され、不可能とされているはずのものを、わざわざそれを認めない不信仰によって自分の身に現実化してしまう、人間の愚かさを言っているのだ。

 

神は、人間の罪による「遺棄」の苦しみと悲惨を、ご自分で担い、引き受けて、勝利してくださった。


だから、神は人間を救いと生命に選んだのだ。神はご自分を犠牲にすることによって、人間を愛することを、自ら選んでくださった、ということだ。

 

しかし、人間が自分でキリストへの信仰を選ばないということによって、自分自身を救いに値しないものとして、神から切り離している。


信仰者はキリストへの服従を選び取ることによって、神によってすでに退けられた「遺棄」の暗闇を後にして、神の選びの光のなかに分け入っていく者だ。

 

カルヴァンの選びの教えにおいては、神は人間を救いと滅びに選び、予定しているということで、「二重予定説」と言われた。


この教えは、「神に選ばれていないなら、どんなに信じようとしても無意味だ」というようなネガティブな意味にとられ、おおいに誤解されるもとになった。

 

カルヴァンの教えた神は「冷徹な絶対的意志で不可解にも人間を救い、殺すような血も涙もない神」というような偏見を与えてしまった面はあるように思う。


これがカルヴァンの教えの誤解だとしても、そういう理解を引き起こす要素が、彼の教えのなかにまったくなかったとは言い切れない。

 

しかし、バルトは神がキリストにおいて「遺棄」をご自分に担われた、という主イエスの十字架の御業を語ることで、選びの教えを根本的に深化・発展させてくれた。

 

このバルトの神学的功績は、おそらく歴史を振り返ったとき、20世紀の神学的前進の大きな一ページを飾ることになるのではないか、と感じる。

 

つまりバルトは、「選び」が「福音」であり、「恵み」であることを、新たに神学的に実証してくれたのだ。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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