牧師が大学の教師となり、大学などで神学や宗教学などを教える教鞭をとるという場合がある。
神学校で教える「神学教師」や、中学・高校で聖書教育をしている教務教師については、ここで念頭に置いていない。
ここで取り上げているのは、牧師が神学校ではなく、一般的な大学もしくはキリスト教主義大学の教師となることについてだ。
このことについて、個人的に感じていることを、率直に書いてみたい。
不快な思いをされる方もおられるだろうが、地方伝道の最前線で労苦し、苦しみを味わっている多くの牧師が感じていることを、代弁できればと思うので、お赦しいただきたい。
こういった事情をご理解いただかないと、キリスト教主義大学の教師になる牧師の先生を、まったく応援できなくなるし、多くの教会で労しておられる先生方もそういう思いだと思う。
私自身は、多くの賜物と力がある牧師が、大学教師となることについて非常に否定的であるし、そういった人事を耳にするたびに、意気阻喪して悲しみと失望を味わっている。
いま、日本の教会は「バビロン捕囚前」のような、歴史的状況を歩んでいる。
あと10年経過すれば、日本基督教団のことを考えてみると、現住陪餐会員の数は現在の半分か、3分の1程度にまで減少することが予測される。
どの教区も、どの地区も、どの教会も、大きな苦難の時を生きることになる。
こういったとき、人間的な思いにおいて、苦難を生きる教会の現場から、逃げたくないような人はいないのではないか。
ただでさえ富もなく、知的刺激も文明の楽しみも乏しく、教会員も少なく、孤独に耐えながら、地域には見向きされず、実りも将来も見えない伝道の業にひたすら従事する、というのは明らかに自然的・肉的な人間性に反している。
こういった場所に留まるのは、超自然的・霊的な恩寵の大いなる支えがなくては、まったく不可能なのだ。
イエス・キリストへの信仰と召命が、自らの自然的・肉的人間性に打ち勝つことによって、なんとか踏みとどまることができるような厳しさがある。
一方、都会のキリスト教主義大学の教師は、どうだろうか。
安定した給与が支払われ、研究費まで支給され、学問の刺激が常に身近にあり、学生については毎年、数百人の新しい人々が入って来る。
「大学の職務」という日本社会も評価するような社会的地位も与えられ、教会や多くの集会に講演に呼ばれるようになり、「アカデミック」という一般に通用する権威まで与えられる。
これらすべてが、日本社会で労苦して伝道しているほとんどの牧師の立場と、正反対なのだ。
人間的な思いからして、こういった立場の方が望ましい、と思わない人はいないだろう。
事実、多くの能力のある牧師が、教会の職務を離れて大学教師を目指す事例が後を絶たない。
こういった人事は、そこにどんなに多くの正当な理由があったとしても、個人的にはただただ残念であるという以外に言葉はない。
「できればそちらに行きたい。行った方がずっと楽だ」と人間的には思いながら、キリストと教会への責任と召命感のために何度もその思いを断念し、噛み殺している牧師の先生方も多いと思う。
私は、キリスト教主義大学での職務を「不必要」だ、などと言うつもりはないし、その働きのなかに苦しみや悩みはない、などというのでもない。
そのような召命があること自体を否定するつもりもない。
私が言いたいのは、これから大きくなっていく教会の苦難を、「対岸の火事」にしないでほしい、ということだ。
キリスト教主義大学で職務を担っている牧師の先生方も、教会の火事を鎮火するために、死に物狂いになってほしいし、教会と受難を共にして頂きたい。
キリスト教主義大学のなかで、イエス・キリストの苦しみ、伝道の苦しみ、ゲツセマネの主イエスの孤独にあずかって頂きたいし、大学で教えているのは「キリストと教会のため」であることを、ぜひ覚えて頂きたい。
大学の職務のなかで、イエス・キリストと教会の苦難にあずかることが、神の栄光を求めていく唯一の道ではないかと思う。
キリストと教会なくしては、キリスト教大学での職務もまた、根源から価値と意味が失われてしまうのだ。
https://amzn.to/3ofdU2k
https://amzn.to/3H3irxu
https://amzn.to/3C57qbu
https://amzn.to/2Yz2xcY