上馬キリスト教会というところの信徒お二人が担われている、ツイッターのアカウントが、キリスト教としては珍しく非常に多くのフォロワーを多く集めており、話題になった。
そこから、『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』という本が出版され、今注目されている。
こういった新しい試みと成功例は、活力を失って苦しんでいる日本の教会にあっては、「なお、教会が生きている証拠」の一つとして、喜ばしいことだ。
こうった新しい試みが、いろいろな形で出てきてほしいと願っている。
特に、ITやウェブ関係について、今の教会関係者は非常に弱いところがあるので、若い世代から革新的な伝道が起こされることを祈りたい。
このアカウントの非常に個性的なところは、今話題となっている流行語やゲーム、多くの人が関心を持っている世の中の話題などを巧みに織り交ぜて用いながら、おもしろおかしく教会のことを伝えるやり方にある。
真面目なキリスト者からは、「こういうことでいいのだろうか? ここまで教会のメッセージを自ら揶揄するような内容でOKなのか?」という疑問が出ており、それももっともなことだと思う。
ただ一つの現代的な伝道の試みとして評価できるのではないかと思うし、こういったやり方が可能な方はそれぞれ、個性的にそれを推進することで、用いられるところが多々あるのではないか。
こういった個性的な伝道の試みが出てくるとき、これを「真似することで、自分も似たような結果を出したい」と考えている方もいると思う。
この記事はそういう方の参考にして頂きたいのだが、私が言いたいのは「伝道方法・伝道形式と、伝道者のキャラクターとの間にどれほど親和性・同調性があるか」ということが、その伝道の長期的な効果にダイレクトにつながっているため、キャラクターとの親和性・同調性がないところで方法論だけを真似ても効果もなく、長続きもしない、ということだ。
実は私にも、赴任したころの思い出として、晴佐久昌英神父の説教を随分読み、研究した時期がある。
彼の説教は非常に魅力的なもので、毎年数十人の受洗者を出しているということを聴いた。
当時、私が担っていた教会の状況は非常に困難なものだったので、学ぶべきところを学ぼうと、かなり長い間読んで分析などをして、真似できるかどうか、試みてもみた。私自身は、なんとかできるのではないかと、うすうす期待していた。
ところがある日、プロテスタントの牧師で、私の目には「明らかに彼は晴佐久神父の説教スタイルをまねている」と思えるものを聴いたが、私自身は聞いているのが気まずくなるほど、恥ずかしい思いような、こそばゆいような、ひどく嫌な気分になった。
つまり、その説教が「わざとらしく他者の説教の演技・物真似をしている」ものにしか聞こえず、「神の言葉を聴く」という単純な本筋に至ることができなかったのだ。
その牧師自身の内からにじみ出る、その人自身の自然な言葉が響いてこずに、私には演技と真似以外のものがなにも聴こえなくなってしまった。
さらに晴佐久神父の説教の研究を重ねるなかで気づいたのは、「この独特な魅力あふれる説教は、神父の独自なキャラクターや生き方と密接に結びついており、そのキャラクターが欠けているところでは、たとえ同じような内容を語ることができたとしても、説教としてはまったくと言ってよいほど成立しない」ということだ。
もちろん、カトリックの礼拝についての理解や神学との乖離など、他の多くの点で真似が不可能なものであることはわかった。
だが強く感じたのは説教においても、その方法論とキャラクターの親和性・同調性が確保されていないと、すべてが不自然かつ人工的な演技や物真似に過ぎなくなってしまい、伝道としては実りのないものとなるということだ。
おもしろおかしい用語や画像などを用いての伝道方法というものも、それを行う伝道者のキャラクターと親和性・同調性がなければ、受け取る側における効果も望めないし、長期的に続けることも不可能である、ということだ。
第一、無理して自分のキャラにそぐわないことをしても、それを聴く人は喜ぶことができるはずがない。その不自然な「空気」から「なんだか息苦しく、見苦しい」印象を受けるに決まっている。
私たちの伝道方法というのは、やはりどこまでいっても「自分の自然なキャラクターと親和性・同調性・一致点」が多くみられるものにある程度以上に限定されており、そこから外れた方法を試みてもいろいろな点で難しいと言わざるをえないのだ。
私たちは各自が個性的な賜物を与えられているものであり、互いに同じようなやり方をする必要はない。それぞれにしか果たすことができない、奉仕の「分」というものがあり、結果がどうであれ、私たちは神に忠実に役割を果たすことを求められている。
私たちは教会というオーケストラを演奏する者だが、それぞれが「自分にしかできないパート」を果たせば、それでいいのであって、人のパートを得意でもないのにわざわざ選ぶ必要はない。
バイオリンを弾いているものが、コントラバスを弾いているものに、「あなたはバイオリンの流儀で弾いていないので、間違っている」と言うのは、「自分が担っている役割の自覚と他者の役割への理解」が足りないということだ。
各自が、安んじて「自分が与えられている賜物を最大限に発揮して、神に奉仕する」ことに集中し、調和しながら役割を果たすことができれば、オーケストラが全体として、よい曲を奏でるようになるだろう。
私自身は相当な真面目キャラだと思うので、面白おかしい万人向けの伝道は難しいが、いわゆる「ガチ勢」をターゲットとして、信仰における理屈っぽい方面での理解を求めている方々に、なんらかの奉仕ができればとりあえずはいいか、と思うことにしている。
「役割分担」といったらなんだか、それぞれが自らのキャラの持ち味を最大限に発揮して、互いに「足の引っ張り合い」をしないことが、日本伝道全体を推進するうえでは、重要だろう。