おそらく誰でもそうだと思うが、牧師の職務においても、働いているうちに微妙に方向性がずれてくることがある。
「そもそも、なんのために伝道・牧会しているのか」という根本的な方向性から、微妙にそして時間の経過と共に変わって来てしまい、それが自覚できないことも多いため、非常に対処が難しい。
おそらく、最初はだれもが理想と情熱を燃やして職務につくが、何年も働くなかで、心は鈍り、感覚は麻痺し、良心の鋭敏さも鈍麻して、方向性全体がおかしくなっていくこともありえる。
特に大きいのは、「世俗との関係」において、「妥協に妥協」を重ねていってしまうことだ。
つまり、おそらくどんな献身者も最初、「ただキリストに仕える」思いをもって派遣されるが、働きはそんな簡単なものではないし、そうやすやす結果が出るようなイージーなものでもない。
経済的に困窮し、人間関係で疲れ果て、この世に理解されない孤独の苦しみを味わっていくうちに、「苦しいから、もうこれまで守ってきた小さな一線については、妥協しても構わないだろう」という思いが湧いて来るのは、ある意味人間として当然なことかもしれない。
こうして、「小さな一線」を妥協し、更に時間が経過して別の妥協を重ねることで、ついには「世俗化」の圧倒的勢力に徐々に飲み込まれ、「霊的生活」の活力をどんどん喪失していく。
「神の栄光のために」始めた働きが、いつしか「自己実現・世俗的成功」のためのものとなり、「神の御心を実現しよう」というモチベーションが、ついには「自分の思い通りに現実を動かそう」という思いに変わっていくのは、牧会の現場で生じる、最も痛ましいことの一つだろう。
自分でも自分を欺いて、「自分は神の栄光のために働いている」と思っているが、その内実が完全な「自己実現」になっている、ということもあるため、非常にやっかいだし、とても難しい課題だ。
こういった「世俗化」潮流のすべてに抵抗するための具体的方法についてだが、私自身がやっているのは『キリストに倣いて』(トマス・ア・ケンピス著)を読む、というやり方である。
この著書は超有名なものだが、プロテスタントの方々の間では大きく二つに立場が分かれると思う。
中世カトリックの修道者向けに書いたものなので、その内容は非常に「律法的・禁欲的で厳格そのもの」に見える。
読んでも、「こんなものはすべて、実行不可能に決まっている」と一笑に付されるところがあるだろう。
「しかめっ面」にならないと読めないような、恐ろしく厳しい教えに満ちている。
私自身もこの著書の教えはまったく実行できないが、一方「世俗化に対する薬」としての強力な効用をこの著書は持っていると深く感じている。
つまり、自分自身も世俗の力にやられてしまい、道を失いかけているときにこれを読むと、「キリスト者としての原点」を深く思い起こされ、「世俗を軽んじ、神を重んじる」という「超基本」を嫌というほどに教えてくれるのだ。
本当に「嫌になる」くらいに厳しいところがあるため、読むのは非常にしんどいが、しかし「良薬口に苦し」である。
霊的な漢方薬のようなもので、習慣的に読んでいると、「霊的健康」を維持するために絶大な効果があるし、比較的容易に信仰的な「王道と邪道」を見分ける力を養われる。
これを読んでいるうちに、さまざまなこの世の迷いが吹っ切れていくのを経験上、何度も何度も経験した。
世俗が圧倒的パワーを持っている現代、この悪しき影響力と闘って霊的生活を維持していくのは並大抵なことではない。
日本の説教者で有名な竹森満佐一牧師が、教会で『ハイデルベルク信仰問答』と、この『キリストに倣いて』を交互に学び続けていた、というお話を聞いたことがある。
確かにこの二つの著作に親しむことは、世俗化に抗する堅固な信仰生活を築くうえで最良テキストかもしない、と感じる。
世俗パワーにやられて、「もうなにがなんだか、わからなくなってしまった」というときの、「霊的漢方薬」として『キリストに倣いて』を読んでみることをお薦めしたい。
ここにある教えを実行するために、というよりも「この世の迷いを吹っ切る」ための絶大な効果があるからだ。