左近淑先生の名前を知っているのは、おそらく旧約関係の方々と、東京神学大学関係の方々だろう。
東神大では、私は旧約については左近先生の『旧約聖書緒論講義』からしばらく講義を受けた。
ところがそこで、「左近先生=緒論」という妙な図式が頭のなかにできてしまい、はじめて旧約学に触れる困難さとあいまって、「左近先生=細かい議論」という偏見もまた脳裏にインプットされてしまった。
その先入見のせいで、大学院に入るまで、ほとんど左近先生の本は緒論講義しか読まずに敬遠していた。
「どうせ読んでも、難しい聖書学の議論で、信仰的な恵みはないのだろう」と勝手に思い込んでいた。
「旧約学では、説教などできない」という私なりの先入見も手伝って、左近先生の他の本から私を遠ざけてしまっていた。
ところが、大学院に入り、「旧約聖書のテキストでどう説教するか」という問いと格闘することとなった。
自分なりにいろいろ模索するが、どの神学者の説教も、どうにもしっくりこない。
旧約を説教するとき、「とってつけた感」がどうしてもある。
つまり、「旧約のテキストから自然に出てきたメッセージ」ではなく、「旧約テキストを自分の語りたいことのために利用して、新約のメッセージを語っている」に過ぎないものがほとんどだったのだ。
旧約は新約のための「踏み台」に過ぎず、旧約自体には、それほど福音としての重要性を感じさせない説教がほとんどだった。
欧米の神学者の説教もかなり読んだが、この課題については本当にしっくりとフィットするものがなかった。
そんななか、図書館をさまよっていたとき、たまたま手に取ったのが左近淑先生の『聖句研究』という書物だった。
これを読むなかで、私自身は「目からうろこのようなものが落ちた」というパウロ的体験を与えられた。
左近先生のこの書物は、旧約のテキストをまったくその時代のコンテキストに即して取り上げ、まっすぐに掘り下げる。
そして、掘り下げられていくなかで、非常に自然な形で、それが「福音のメッセージ」として解き明かされていく。
そのメッセージがあまりに現代的であるため、深く胸を打たれるものだった。
「旧約は新約とかけ離れているので、旧約をなんらかの釈義的テクニックで読み解き、うまく新約につなげる」というものでは、まったくないのだ。
旧約をひたすら読みながら掘り下げていくことで、当然のように新約と一致した福音が語りだされる。
福音という点において、旧約がまったく新約と一致することが、旧約テキストに取り組んでいくとき、自然を明らかになっていく、という稀有の読書体験を与えられた。
「旧約は、こんなに恵み深いものだったのか!」という深い想いがはじめて与えられたのが、私の場合は以下の先生の書からだった。
「緒論」の精緻な旧約学の議論をする左近先生とは、ある意味ではまったく別の姿を示す、「預言者左近」の姿を彷彿とさせるのが、以下の書物である。
左近先生の説教集も読ませていただいたが、これも旧約の言葉が現代へと「立体化」するのが、語弊はあるが「天才的」であると感じられるほどのもので、旧約聖書の説教において迷っている方々は、絶対に助けになることを請け合うことができるものである。
「旧約のテキストで、どう福音を語って行けばいいのか」「旧約における福音とはなにか」といった課題をめぐって、迷っている方々は、ぜひ以下の書物を参照していただきたい。
必ず、大きな光が与えられ、旧約の恵みに目が開かれるだろう。