E・H・ピーターソンの『牧会者の神学』を改めて紹介したい。
この著書は、牧師の「外面的」な働きの部分については、触れていない。
教会の運営、役員会形成、伝道の方法、牧会の仕方など、こういったすべてのことを描いているのではない。
むしろ、これらすべてを成り立たせている、根源となるものを描いている。
アスリートでいえば、日々の基礎練習に相当するような部分だ。
ランニング、筋肉トレーニング、日々の体調管理・・・。
こうしたものは、舞台の「裏」でなされているため、どんな努力がされているか、気づかれない。
こういった部分は、仮に牧師が怠っていても、信徒も気付かないことが多い。
信徒が大声で、牧師にこういった日々の基本的修練をするように、要求することもない。
「先生にはもっともっと静かな時間を持って、じっくりと聖書を黙想してほしいです」と語る信徒がいたら素晴らしいかもしれないが、現実にはこういった声はほとんど聴くことはない。
そればかりか、牧師がこういった基礎的修練をまったくしなくても、「牧師らしい牧師」を演じることが十分に可能であることを、ピーターソンは皮肉まじりに、繰り返し語っている。
「牧師らしい牧師の演技を身に着けさせるためのカリキュラム」を考案して、ごく短期間で「偽牧師」を大勢育てることができる、という、面白いが急所を突く皮肉まで語っている。
牧師の職務が成り立つための基本的修練、職務の根源になるものとして、ピーターソンは三つの課題を挙げている。それは「祈り」「聖書」「霊的導き」だ。
「祈り」については、ギリシア神話のプロメテウス的精神(火に象徴される文明推進の精神)と、啓蒙主義から生じた聖書批評(特にヴェルハウゼン)の精神が、祈りに対立するものとして、祈を侵食し、力を失わせてきた事実を描き出す。
祈りの章の最後にピーターソンが指摘する事実は、非常に示唆的だ。
「祈りと遊び」を「安息日」の重要な営みとして、取り上げている。
「祈りと遊び」は、その本質が非常に通じ合っている。
両者共に、「目的志向」とは異なる様式を持っている点だ。
あの厳格でクソ真面目そうな顔をしたカルヴァンも、日曜日の午後は今でいうところのボーリングのような遊び(九柱戯)をジュネーブ市民と一緒に楽しんでいた、というおもしろい話を紹介している。
「祈りと遊び」の本質は、永遠運動的な目的志向の日常の仕事をいったんストップして、「ただ存在すること」、「存在を喜ぶこと」に意識を向けるところに特徴がある。
日々の働きは、自覚的に「やめる(シャバット)」しない限り、目的追求的に延長され続ける。
しかし、聖書が教える「安息日」は、こういった世俗的目的追求生活の生活を断絶させ、果てしない「行為・活動」を停止させ、「存在の喜び」のなかに留まることを求める。
それによって、人間が「道具」となるのではなく、神の前に尊厳ある被造物として回復されることを聖書は示しているのだ。
牧師は、日曜日は働く日であるため、別の日に安息日を持たなくてはならないことが記されている。
教会員に協力を求め、牧師の安息日には牧師になんらかの仕事を持ち掛けないよう、役員会でも語る必要がある、ということにも触れている。
牧師にとっては、「伝道」が「目的追求」の課題となるが、「伝道」のことを忘れ、「伝道しなくても、伝道に失敗して実りが見えなくても、なお神によって愛されており、自分の存在を喜ぶことができる日」として安息日を祝うことを始めることが要請される。
熱心な牧師ほど「伝道」のことを考え、実践するあまり、「燃え尽き状態」になっていく傾向がある。
こういった安息日の「存在の喜び」のなかから、新しい視野も開けてくる、という希望が与えられる素晴らしい内容となっている。ぜひお読み頂きたい。