『牧会者の神学』(E・H・ピーターソン)という著書がある。
この著書の序文は、強く胸をえぐられる「預言的」なものであり、心を深く突き刺す言葉に満ちているため、その一部をすべて引用することをもって、この著書の紹介のはじめとしたい。
おそらく、それがこの著書が真剣に牧師の職務を考える人が読むべき「必読書」であることを示す、最も良い方法だと思う。
これを読むと、これはそのまま日本の状況とも重なるし、見聞きする牧師の現状と照らして考えると、「痛い!」と叫びたくなるような衝動を感じる。
神学生時代に読んだときは、まだ経験がないので実感がなかった。
しかし、改めて読んでみると、自分がこれまでの牧師の働きのなかで経験してきたことと重なるところが多く、いろいろ思い出されて涙が出た。
ここに書かれていることは、深い悲しみと怒り、教会の再建と再生への希望が秘められているが、こういった言葉に心から「アーメン」を言うことができる、真実の牧師の同労者が一人でも起こされるように願っている。
私自身もこの著書が描くような「少数者」のなかにいると誇ることはできない数々の罪がある。
この著書が描くことを、私も実行できていないし、自分が十分な働きをしていると言えるわけでもない。
しかし、こういった著書によって原点に立ち戻り、新しい決意で「牧師の職務」を真摯に受け止めたい。
今回は著書の執筆動機となる序文のところを引用する。
以下、『牧会者の神学』の序文より引用。
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現在、アメリカの牧師たちは、右から左にいたるまで、驚くべき早さで自らの役割を放棄しつつある。彼らは教会を去るわけではなく、新しい仕事を探しているわけでもない。
教会員は今なお牧師たちの給料を支払っている。彼らの名前は教会専用の便箋に印刷されており、日曜日ごとに彼らは説教壇に姿を現す。
しかし、彼らは彼らの役割を、「召命」を放棄しつつある。彼らは他の神々に惑わされている。
彼らが牧会という装いのもとで時間をつぶしていることがらは、2000年間にわたって牧師たちが守り続けてきた行為とは、なんの関わりもないものになり果ててしまっている。
私たちの中でも少数の者はこうした事実に憤りを覚えている。
私たちは、自分たちがすでに見捨てられてしまっているという事実について憤っているのである。
「牧会とは何か」という定義を教え、試験を実施し、按手を行い、そしてひとつの教会の牧師として私を送り出してくれたはずの同僚の牧師たちのほとんどが、ほんのわずか私とその道程を共に歩んだだけで、私を残して去っていってしまった。
「より緊急に行うべきことがあるのだ」と言いながら・・・。
同労者として共に働くことになるはずの人々が、その仕事が始まったとたんに消えていったのである。牧師の仕事は困難な仕事である。
私たちは同労者との交わりや仲間同士の対話を望んでいる。
部屋の中に自分と同じ牧会上の問題を共有し、共に取り組んでくれることを期待できそうな人々がいっぱいいる。
にもかかわらず、10分とたたないうちにその誰もがほとんどまったくそうした私の期待に応えてくれそうもないことを発見して苦い失望を味わうような情景を想像してみるとよい。彼らが話し合っているのはイメージと統計上の問題である。
彼らは匿名である。彼らは影響力や地位について議論する。
神、魂、そして聖書といったことがらは、彼らにとってなんの役にも立たないものであった。
アメリカの牧師たちは「企業経営者」の一群に変容してしまった。
彼らが経営するのは「教会」という名の店である。牧師は経営者感覚、すなわち、どうしたら顧客を喜ばすことができるか、どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか、どうしたら顧客がより多くの金を落としてくれるような商品をパッケージすることができるか・・・そうした経営者的な感覚に満ちている。
ある者たちはきわめて優秀な「経営者」である。彼らは大勢の顧客を魅惑し、人々から莫大な額の金を引き出して、輝かしい評判をとる。
しかし、それはあくまでも「商店経営」にすぎない。
それは「宗教という商店経営」であって、「商店経営」という点においては他の商売となんら変わることはない。
目覚めている時、これらの企業家たちの心を占めていることはファーストフート店の経営戦略と同じような関心である。
眠っている時、彼らが夢見ていることはジャーナリストの注目を集めるようなたぐいの成功である。
マーティン・ソーントンは言った。「途方もなく大勢の会衆の存在はすばらしいことである。喜ばしいことである。しかし、ほとんどの信仰共同体がほんとうに必要としているのは若干の聖人の存在なのである。悲惨なことは、人々が(そうした聖人によって)見出されることを待望し、正しい訓練を受けることを待望し、つまらないカルトから解放されることを待望していながら、なお人々が未成熟なまま置き去りにされているという事実なのである」
「成功した教会」など存在しないという事実を聖書は教えている。
存在するのは、世界中の町や村で、毎週毎週、神の前に集う罪人たちの集いにすぎない。
聖霊がそれらの人々を集め、聖霊が人々に働きかける。
この罪人の集いの中からある者が牧師として召し出され、その集いに責任を負う者となる。
牧師の責任とは、そこに集う人々の関心を神に向かわせ続けることにある。
(アメリカで)牧師たちが放棄しているものは、まさにこの意味における責任そのものなのである。
・・・いったいどれほどの人々が私と同じ憤りを共有しているものか、私にはわからない。私が知っている人々はわずかな数にすぎない。
いずれにしても、そうした人間はさして多くはないはずだ。バアルの神に膝をかがめなかった7000人は今もなお残されているのだろうか?
「少数派」を自認するだけでも充分なのだろうか? 私はそれで充分だと思う。時として私たち「少数派」は互いの存在を確かめあう。
これまでに多くのことが「少数派」の人々によって成しとげられてきた。
そして、「商店経営」を続ける牧師たちの中にも、その人々が按手にとって与えられた「長子の権利」を代償にして得た「煮物」の中味が実は味気ないものにすぎなかったことに気づき、それに物足りなさを感じて召命へと立ちかえる者があるに違いない。
その人々が感じる物足りなさは、これまでの彼らの職務怠慢を容赦なく否定する炎を燃え上がらせ、また彼らの口の中で神の言葉を再び燃え上がらせることができるほどの「残り火」だろうか?
私の憤りがふいごとなって風を送り、彼らの中の「炭」を燃えあがらせることは可能だろうか?
以下の前掲著書の序文より引用。