牧師の職務について④ 説教における「人効説」と「事効説」

 Juíza reconhece vínculo empregatício entre pastor e igreja - Migalhas  Quentes


プロテスタント教会における最も困難な課題の一つが、説教における「人効説」と「事効説」ということだと思う。

 

「人効説」「事効説」とは、古代教会において迫害の状況下で棄教した指導者が復帰した際、その人が執行するサクラメント(秘跡:プロテスタントの文脈では「聖礼典」のこと)は有効か、無効か、ということをめぐる論争から生じてきた概念だ。

 

ドナトゥスという人は棄教するような指導者によるサクラメントは無効だと主張し、アウグスティヌスという神学者は有効だと主張した。

 

ドナトゥス(ドナティスト)は人間の聖性や道徳的資質といったものがサクラメントの執行に影響を及ぼすことを神学的に妥当と考えたが、これを「執行する人によって効果が決まる」という立場から「人効説」という。

 

一方、アウグスティヌスが「有効だ」といった理由は、人間の資質がサクラメントの有効・無効を決めるのではなく、サクラメントに臨在しておられるキリストがサクラメントを有効とされる以上、

 

なされているサクラメントの業そのものが適正かどうかで有効・無効は決まる、という立場を描いた。

 

これが「なされている業から効果が決まる」という「事効説」であって、こちらの立場が「正統」とされた。

 

つまり、西方教会の伝統ではサクラメントの領域では「事効説」が正統であることは決定済みであって、ここでこれをむしかえすつもりなどない。

 

私が心を悩まされているのは、「説教における人効説、事効説」についてだ。

 

これについて、皆様はどう思われるだろうか。

 

これは非常に困難な問いだと感じるし、しかもプロテスタント教会の急所を突くような深刻な部分もある。

 

説教が「サクラメント的」なものであることについては、多くの議論があるかもしれないが、少なくとも説教が「恵みの手段」である以上、サクラメントのように神の恵みの媒介・手段となることは確かであると言える。

 

教会の実際的な現実として、「~先生の時は礼拝出席者が多いが、別の先生が説教の時は出席者が減る」ということがある。

 

また、「~先生が説教していたときは教会が成長していたが、後任の先生になったら衰退するようになった」ということがある。

 

これは、「出席者が信仰的によくない。説教を人間的に聴いているからそうなるんだ。そういう出席者の態度こそ間違っている」という風に言うこともできるだろう。


事実、神の御言葉ではなく、指導者との出会いを求めて出席するケースもないとは言えない。

 

しかし、それを言うだけでは、おそらくなにも解決しないし、出席者すべてに説教の聴き方を叩きこんだところで、「不満が残る」という状況が大きく変わるわけでもないだろう。

 

説教者によって、説教の「効果」になんらかの違いが生じている、ということについては、実践的に認めざるを得ないところがあるのではないか。

 

これは、プロテスタント教会が「説教によって立ちもし、倒れもする」ことからすると、結局のところ「説教者」に教会の前進と成長について深く依存しているということであって、最も大きな課題であると言える。

 

教会が成長しているとき、指導者の霊的生活や祈りの熱心さが説教の「力強さ」に影響しているのは確かに、認められる。

 

こういった現象を目にすると、説教においては「人効説」が該当している、という風に見える。

 

一方、教会が成長しているときの牧師の説教が、どうして「効果的」になったかを考えてみると、やはり「説教としての適正さ」に即した、しっかりとした説教奉仕がなされていたからだ、ということも言える。

 

つまり、説教として適正な神学に基づき、適正な方法によって準備されているから「効果」が生まれたのであって、その牧師のなんらかの資質自体に効果の源があるわけではなく、キリストご自身がその源である、という客観的視点からすると、「事効説」が該当していると言える。

 

以上のことを考慮すると、説教においては、「人効説」と「事効説」という概念だと、どちらも部分的に妥当する、という結果になってしまうように思う。

 

しかも、指導者としての資質と、説教の業の適正さは、相即・相補的な関係にあり、両者が互いを支えているようなところがある。

 

ここで、「キリスト論的」と「聖霊論的」という別の範疇を導入してみると、もう少しクリアになるところがある。

 

つまり、説教としての適正さ(事効説)は「キリスト論的」なものであって、聖書の御言葉をどう聴くか、という課題となる。

 

一方、説教としての力強さ(人効説)は「聖霊論的」なものであって、聖書の御言葉をどう生きるか、という課題となる。

 

御言葉を「どう聴くか」と「どう生きるか」は、両者ともに重大な契機である以上、説教においては両者ともに真理契機として認めていく、という方向性になるのではないか。

 

「説教としては正しいけれど、霊的な力が乏しく感じる」説教があるが、これは「聖霊論的契機(人効説的)」が希薄だと言える。

 

一方、「力強いのはよいが、聖書的に正しい道を踏み越えているように感じ、不安を覚える」説教もあるが、これは「キリスト論的契機(事効説的)」が希薄ということだろう。

 

これは「教理」と「霊性」の課題にもつながる。「教理的」であることと、「霊的」であることは、両者共に極めて重要だ。

 

説教という課題においては、「人効説」「事効説」のどちらの真理契機もバランスしながら統合していく、という道が「正統」であって、どちらかを軽視していくのは、邪道にずれていく歩みになるように思うが、いかがだろうか。

 

説教の「サクラメント的性格」についての議論は、こちらに豊かに書かれており、深く考えさせられる。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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