今回は、これまでとは、少し違う視点で「信仰」を描いてみます。
私たちは、生活の全体を神の御前で営むものですから、およそあらゆる課題を信仰のこととして、とらえることができます。
「今日の天気」から、「今の健康状態」や「足を机にぶつけたこと」まで、信仰のこととして受けとめることも可能です。
しかし、「すべての課題」について信仰でとらえようとすると、かなり無理があるものもあります。
以前聞いた印象的は話ですが、ある神学生が青い顔をして「自分は神に見捨てられているのではないか」という不安を訴えたとき、その話をじっと聞いた牧会指導者は、「あなたがそんなに不安なのは、どこか体の調子が悪いからではないか」と言ったというのです。
そして、事実体の調子がよくなると、不安や恐れも消えたというのです。
私たちが主観的に感じる「不調」や「痛み」や「不安」などのすべての原因が、「罪」のような信仰的な領域にあるわけではありません。
身体的な要因もあるし、寝不足や過労といったことで恐れに取りつかれることもあります。
私たちが覚える苦しみのすべてを信仰的に解釈してしまうと、解決のために間違ったアプローチをしてしまうこともありえます。
とにかくゆっくり寝なくてはならないときに、罪の赦しを求めて深夜まで祈る、ということをしたら、状態はむしろ悪化してしまう可能性もあります。
「神への信仰と倫理」という信仰が関わる領域と、そうではない領域を区別し、課題に対してふさわしいアプローチをするという「知恵」が要請されます。
私たちが神を信じるときには、ある課題について「それが信仰の問題であるかどうか」ということをも、ある程度判別することができるようになる必要があるのです。
こうした知恵は、キリスト者として聖書の学びを深めると共に、他の分野の知識をも学んでいくことで、培われていきます。
信仰だけで現実のすべてを解釈するのは、無理があるため、私たちは神の導きのもと、さまざまな分野の学びをも深める力を、神から頂いているのです。
このような「知恵」を、神に願い求めつつ、信仰生活を進めていきましょう。
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主イエスは、「あなたが信じたとおりになるように」(マタイ9:29ほか)と、よく言われます。
このみ言葉は、かみしめると、本当に心に深く響き渡る真理に満ちています。
私たちは、どれだけこの主イエスの御言葉を信じているでしょうか。
おそらく、ほとんど信じていないことが多いのではないかと思います。
もし、本当に「私が信じたとおりになる」と思っていたら恐ろしくなるようなことも、私たちは日々心に思い、口にしているのではないでしょうか。
「一生懸命やっても、どうせダメさ」
「わたしは、だれにも認められていないし、愛されていない」
「あの人との関係は、結局だめになるだろう」
「伝道は難しいから、教会は衰退していくに決まっている」
こうしたことを日々心のうちに考えて、自分自身そう思い込んでいるとしたら、「あなたが信じたとおりになるように」という言葉は、むしろ「裁き」として働いてしまいます。
私たちがこのような考えに深く陥れば陥るほど、私たちの生きる現実にも、こうした考えが徐々に反映されてくるのではないでしょうか。
逆に、「私の人生はどんどん良くなる」、「教会は成長し、前進していく」、「あの人との関係は、すばらしいものになる」などと信じ切っていたら、やはりそれは現実に反映されるとも言えます。
そう信じている人は、現実が改善されるために考え、日々力を尽くして働くので、事実そのように生きる現実もまた変えられていきます。
上の例は、「ポジティブ思考」にも通じるような、ごく人間的な次元での話ですが、「あなたの信じたとおりになるように」という御言葉は、そうしたレベルにおいても真理だと言わざるをえません。
しかし、聖書で主イエスが言われているのは、こうした人間的次元においてのことが第一ではありません。
むしろ、私たちが主イエスの慈愛の御心に信頼するとき、主がみ言葉をもって約束したことが私たちの現実に成就する、というのが第一義的な意味です。
神の約束は、私たちが信じる、信じないにかかわりなく、厳然として成就します。
しかし、私たちが主イエスの慈愛の力を信じないなら、神の約束の成就の喜びとすばらしさを、私たち自身は味わうことができません。
神の約束の成就を見ることができるのは、ただ信仰においてのみです。
出エジプトをした第一世代で、神を信頼したヨシュアとカレブだけが、約束の地に入ることができたように、信じる者は神の約束の成就を目撃します。
信仰とは、神の約束が私たちの人生に現実化するのを、心のうちに受け入れることです。