信仰とはなにか⑥ 「信仰による約束の実現」反論への回答

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース


前回、主イエスの「あなたの信じた通りになるように」という御言葉を紹介しました。

 

私たちの生きる現実というのは、私たちが心底からそうだと信じた通りになるように動いていく、ということでした。

 

今回は当然予想される反論について、考えてみます。

 

「すべてが信じた通りになるなら、あなたは信仰によってリンゴは三角形にできますか」

 

「自分は死なないのだと信じたら、本当に死なないのですか」

 

「大富豪になると信じるなら、そうなるのですか。私、なってないですけど」

 

大体、このような反論がありえます。

 

こうした課題を考えるうえで、大前提を確認したいのです。

 

主イエスが「あなたが信じた通りになるように」と言われているとき、人間の側はキリストに対して「御心ならば、~してください」という願いをしているということです。

 

つまり、神の御心に反していることをいくら願っても、その通りになるはずがありません。

 

御心に合致しているとき、実現に必要な時間的な長短はありますが、信じた祈りはその通りになります。

 

では、神の御心とはなんなのか。

 

それは、「神の召命の目的に合致している」ということでしょう。

 

神を信じるだれもが、神の計画の一部を担うように、神の目的に向けて召し出されています。

 

それぞれに、特定の領域で働くよう、務めが与えられています。

 

私たちにはそれぞれ、家庭を守る、職業を通して社会に貢献する、健康を保持する、教会形成を担う、といった神がお与えになった「召命」があります。

 

召命を遂行することで、神の計画に仕えるためです。

 

神は、私たちがこの「召命」を遂行するために、必要なものはなんでもお与えくださいます。

 

本当に必要とあらば、「なんでも与えてくださる」のです。

 

自分の「召し」に合致していないことを大胆に信じても、無駄に終わることになります。

 

しかし、自分の「召命」に合致していることについては、とてつもなく大胆にその通りになるように信じて、祈らなくてはなりません。

 

召命について慎まし過ぎて、志と器が小さいクリスチャンになってしまうのは、おそろしくもったいないことです。

 

私たちに与えられている「召命」の枠内であるなら、私たちはだれからも「無理だ」と言われるような大いなる目標を、神の力によって追求することが許されています。

 

 

 

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そろそろ、「信仰」について論じるのも長くなってきたので、今回はこれまで論じてきた重要な点をまとめて、「信仰」の連載は終わりとします。

 

1:「信仰は、神の言葉を聴き、祈ることによって神ご自身から与えられるもの」

 

「信じる」というとき、私たちの「意志」が起点になるようなイメージがあります。

 

だから、意志の力と努力によって自分で自分の心に奮い起こさなくてはならないような気がしてきます。

 

しかし、信仰は基本的に、「自分で生み出すもの」ではなく、「神から与えられるもの」です。

 

私たちの努力によってではなく、神の言葉と祈りによって、神ご自身から私たちの魂に植え付けられます。

 

礼拝(説教と聖礼典)にあずかることで、信仰は神ご自身によって養われていく性格を持ちます。

 

2:「信仰は私たちの魂にイエス・キリストを迎え入れるもの」

 

信仰の最も主要な働きは受動的なもので、キリストを私たちが受け入れるための「器」「通路」「管」となるというものです。

 

イエス・キリストを受け入れることで、私たちはキリストと一つのものとされ、私たちの罪がキリストのものとなり、キリストの義が私たちのものとなるという「霊的結婚(マルティン・ルター)」が起こります。

 

このキリストを受け入れるということが、いわゆる「救い」の本質です。

 

これを「信仰義認」とも言います。

 

ただ信仰だけが、キリストを受け入れ、神との和解をすることができます。

 

3:「信仰は神の約束と計画を成就するもの」

 

私たちは信仰においてキリストを受け入れるが、このキリストは「神の約束」の実現として来てくださったお方です。

 

だから、私たちは自分が生かされている日常の現実世界のなかでも、神の約束と意志、そのご計画が成就していくことを能動的に「信じる」ように求められています。

 

私たちの生きる現実は神の約束とは異なるもののように見えるが、しかし神の約束の方がむしろ力があり、現実化していくことを信じるのです。

 

神は私たちの必要が満たされ、救われる人々が増し加えられる、神による「祝福」の将来もまた、約束してくださっています。

 

これを「能動的」に信じていくこともまた、信仰の働きです。

 

約束の地を見ることができたヨシュアとカレブのように、確認できなくてもなお「信じます!」と告白する信仰によって歩むことが求められています。

 

逆に、荒野で滅ぼされた民は、ヨシュアやカレブのように信じることをせず、カナンの地の人々を神以上に恐れることで、かえって自分たちを約束の地から除外してしまいました。

 

主イエスが、「あなたの信じた通りになるように」とおっしゃる、神の計画の成就は、この信仰によってこそ味わうことができるのです。

 





齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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