「信仰」というとき、「何を信じているのか」ということが当然大切になります。
この「何を」ということについては、「信仰対象」と「信仰内容」があります。
「信仰」と「信仰内容」と「信仰対象」の三者は、切り離すことができません。
「信仰対象」は、言うまでもなく三位一体の神ご自身です。
この神は肉的な感覚では確認できない霊的な存在ですので、私達はこのお方を「信じる」のです。
信仰は根本においては、この人格的な三位一体の神への「信頼」です。
私たちが親友や伴侶を信頼しているように、人格的な、生きて働いているお方を信頼しているのです。
これは信仰の意志的な働きです。
しかし、三位一体の神を信頼するというとき、この神がなにをしてくださるお方であるのか、私たちに対してどう働いておられるのか、それがわからなければ、「信頼」は成り立ちません。
このことと関わるのが「信仰内容」です。
「三位一体の神とは、いかなるお方なのか」ということを私たちが理解して初めて、このお方を「信頼」することができます。
この「信仰内容」を語っているのが、「聖書」であり、「信仰告白」です。
私達は聖書を読み、信仰告白に学ぶことを通して、「三位一体の神はいかなるお方なのか」を理解します。
この理解に基づいて、神を信仰の対象として、信頼するのです。信仰の理性的働きです。
そして、最後にこうした信仰内容を理解し、神を信頼することへと踏み出すために、「信仰決断」という契機があります。
神によって心に感動が与えられ、神を信じて生きる素晴らしさを味わって、私達は信じる決断をすることができます。
神にある喜びを味わうことで、信仰への一歩を踏み出す決断がなければ、理解や信頼を深めていくことはかないません。
信仰の感情的働きと言えます。
つまり、「信仰」というときには、上の三つのレベルがあるのです。
「神への人格的信頼(意志的働き)」・「信仰内容への同意と理解(理性的働き)」・「信じる決断(感情的働き)」の三つです。
私たちが洗礼を受けるときも、受けて後も、これら三者が織り合わされながら深められていくのが、信仰生活なのです。
これら三つがバランスよく成長することが必要なのです。
私たちに与えられている「知性・感情・意志」のすべてが用いられて、信仰は深められるのです。
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地震をはじめとした、「想定外」なことが私たちの人生に起こるとき、多くの人は「神はなにをしておられるのだ」という疑いと不信の念に苦しめられます。
自分の思い通りに現実が動いていかないとき、聖書に書かれていることが非現実的なものに思えるのです。
私たちの目が見ているのは、自分が予想もしていなかった現実であって、そこに神がおられるなどとは、とても思えない。
この現実のどこに、神が働いているのか、わからなくなるのです。
マルティン・ルターはこうした現実を、「隠れた神」という言葉で表現しました。
神が私たちのまなざしから隠れておられ、神の働きを認めることができなくなるのです。
神が御隠れになり、神の恵みの導きが見えなくなります。
ちょうど、主イエス・キリストが十字架にかかられたとき、神は最も深くお隠れになりました。
あの十字架のどこに神の働きが認められるでしょうか。
神の慈愛とは正反対のことが、あの十字架で起こったのです。
しかし、まさにその主イエスの十字架により、神は人類の救いを成し遂げられたのです。
神が深く隠れておられるようにしか思えない現実にあって、なお神は恵みの御業をしておられるのです。
最深の暗闇が、最高の神の勝利となりました。
私たちの信仰の眼差しがそれを認めることができなくても、なお神は働かれている。神は私たちから隠れておられても、なお神の慈愛の業は続けられている。
そのことを、「わからなくても、ただ信じる」のです。
このような隠れた神の御業は、私たちはただ「信じる」ことができるだけです。
もはや、神の働きを確認することができなくなっても、「それでも、なお私は信じる!」と、「隠れたところで恵みの御業をしておられる神」を信じるのです。
私がもはや現実のなかに神の愛を見ることができなくても、なお神は私たちを愛しておられることを信じるのです。
嵐がやってくるとき、地上は闇に閉ざされますが、雲のうえには太陽はなお輝いています。
そのように、神はこの困難のただ中でもなお恵みの御業をしておられる、そのことを信じるのが「信仰」の働きです。
やがて、時が満ちたとき、私たちは「まさにあの時こそ、神は大いなる力をもって働いておられたのだ」ということを、振り返って悟ることになるでしょう。