今回は「信仰」を、三つに分けて考えてみます。
「信仰」「信頼」「信念」です。
「信仰」とは、神の「存在」に関わります。
神が三位一体のお方として存在しておられる、神の「存在」の厳然たる事実を信じます。
礼拝を通して神と出会い、神の恵みを経験することで、神の存在について私たちは信じるようになります。
これが信仰の根本です。
第二に、神の「ご性格」を信じる「信頼」です。
神は、ご自分がなした約束を破ることがありえない、「誠実」なお方です。
また、私たちの教会と生涯全体に対して、善き計画をしておられる「慈愛」に満ちたお方であり、私たちのためにご計画を成し遂げるために、どんな困難と罪をも取り除くことがおできになる「全能」なるお方です。
私たちは日常生活のただ中で、実践的・具体的課題と取り組む日々のなかで、神のこうしたご性格を理解し、このお方に信頼します。
私たちの出会うすべての出来事の真っただ中で、神がなお誠実で慈愛に満ち、全能のお方であることを信頼し、仕事に取り組むのです。
ここに信仰の安定と力強さが生まれます。
第三に、神の「働き」を信じる「信念」です。
私たちは、「どうせダメさ」とか、「結局、結果は同じさ」などと、すぐあきらめてしまう癖があるかもしれません。
しかし、もしそれが神ご自身の働きであるなら、安易にあきらめてしまうことは不信仰になります。
私たちが取り組んでいる働きのすべてを通して神が働き、神がご自身の働きを推進され、目的を達することがおできになるのだという、「信念」を抱く必要があります。
「信念」があって初めて、世の人には無理だと思われていたような難事業でも、成し遂げることが可能になるのです。
「信念」があるから、私たちは努力と前進を継続することができるからです。
神の存在を信じる「信仰」、神のご性格を信じる「信頼」、神の働きを信じる「信念」。
これらが私たちの日常のただ中で豊かに交錯し、働いてこそ、私たちの信仰生活・教会生活は生き生きとしたものになるのです。
場合によっては、「神の存在は信じているけれど、神のご性格には信頼していない」「神の慈愛は信じているが、神の働きについては無視している」といった形で、信仰のバランスを欠いてしまうことがあります。
私たちは「信仰」「信頼」「信念」を具体的な日常で実践してこそ、堅実かつ力強い信仰者として歩むことができるのです。
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また、私たちが「信じる」というとき、そこには二つの側面があります。
私たちがイエス・キリストを信じ、救いを受けるときは、信仰は「受動的・受容的」に働きます。
主権をもって私たちの救いのために働いてくださるのは、三位一体の神ご自身であって、私たちはそれを「認め、受け入れる」のです。
「信仰義認」という教えがありますが、これはイエス・キリストを私たちが受け入れる信仰によってのみ救われるということで、ここでは信仰は最後の最後まで「受け身」です。
神を礼拝し、御言葉を受け、聖霊の働きにあずかるのも、まったく「受動的」なものです。
私たちが神に向き合うときには、信仰の根本はこのようなものなのです。
このような「受動的・受容的」な信仰により、神ご自身から恵みのエネルギーと生命を受け取り、天国の希望を心に灯されるのです。
神の恵みを受け入れる信仰がないなら、私たちの信仰生活は成立しません。このような信仰の受動性によって、私たちの力の源が確保されます。
しかし、私たちが礼拝から職場や家庭、地域に出かけていくときには、事情は異なります。
私たちは神の御前においては「受動的」ですが、礼拝から信仰の実践の現場へ出ていくときには、「能動的」になります。
つまり、私たちが週日の生活を営む現場は、家族、同僚、隣人、友人、信仰の友など、さまざまな人々に囲まれています。
私たちはこの人々の間で、積極的に「隣人愛」を実践する者として、その現場に派遣されているのです。
そこでは、神から受動的に頂いたエネルギーを、「発揮」していくことが求められています。
神から受けた恵みを原動力として、目の前にある隣人の課題に力を尽くして取り組むのです。
そこでは、信仰は「能動的」に働いています。
私たちが関わる人々が、神の愛を知り、神によって救われ、幸いな日々を歩むことができることを信じて、仕事に取り組むのです。
神がその現場で力強く働いていてくださることを信じて、努力を続けるのです。
しかし、こうして働くことは、「疲れ」をもたらします。
霊的なエネルギーがだんだん枯渇していきます。
そこで、日曜日に改めて神の前に出て、神からの一方的な恩寵にあずかる必要が出てくるのです。
礼拝→日常の働き→礼拝・・・という一連の流れのなかに、信仰の「受動性」と「能動性」が繰り返されながら、神の恵みをこの世にもたらすのがキリスト者の使命なのです。