信仰とはなにか⑧ 「ビジョンを描くこと」の是非と意味

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース


受験をひかえていた高校3年生だったとき、一時「計画的にやる」ことにはまったことがある。


一日にやるべき課題のリストを一日のスケジュールに組み込んだものを作るのだ。


「A問題集を10ページを9時から11時までやる」「B単語集から単語50個覚えるのを5時から7時までやる」というように、一日のスケジュールを、消化しなくてはいけない課題に沿って書いたものである。


これを作って取り組むと計画的に課題をこなせる、と思ったからだ。


このペースで課題をしていけば、3カ月後にはこれだけの結果が出る、というようなことも推測できると思ったのである。


ところが、これを実行してみると、大抵頭のなかだけで考えたスケジュールの多くは現実には実行できず、また実際にやってみるとはるかに早くに終わるものもあり、結局「こんなもの作ろうと作るまいと、結果は同じなんだ」と放り出してしまった。


それ以来、「計画」というものに対する不信感を抱くようになった。どんなによく考えて計画しても、現実というものはその計画よりもはるかに複雑かつ重厚で、自分の頭で考えだしたような計画はその現実の前にもろくも崩れてしまうものに思えた。

 

クリスチャンになってからは、この「計画」への不信感はさらに強まった。私たちの将来は神の御手のうちにあり、将来のすべてを握り、創造されるのは神であるので、将来は神の領域なのだ、


だから私たち人間はその将来を予測することも計画することもできないし、仮にしたとしてもそれを神は簡単に覆すことがおできになる、という考えを持つようになった。


「今を集中して生きる、そうすれば将来は神がお備えになる」


この考えは私の心に深く根を張って、私の一部となった。現在するべきことをしているのならば、将来については考える必要ない。


「明日のことを思い患うな」


こうして、「今」を一番大切にし、「今」自分の出会っている問題に全力を尽くしていればそれでいい、という考えを抱いて、しばらくの時を過ごした。


その時には、「計画」≒「無意味」と思っていた。場合によっては、人間の計画というのは神の計画と矛盾する罪深いものと思っていた。


ところが、ある時外国人のクリスチャンから「あなたのビジョンはなんですか」と聞かれたことがあった。


そこで自分はビジョンとか計画とかいうものを信じていない、それは神が知っていてくだされば十分だ、と話したらその人は「でも、神は私たちの計画をお用いになります。修正を施して」と言った。



その言葉が気になったので、この「ビジョン」とはなんなのか、調べてみた。


すると、特に経営学の世界、ビジネスの世界では「ビジョンを持つ」というのは常識となっていることがわかった。


どこの企業でも、大抵は「ビジョン」や「ミッション・ステートメント」を掲げている。


また、教会でも、特にキリスト教が盛んな国ではこのビジョンについての考え方をおおいに取り入れていることがわかった(どうやら、それを導入したのはピーター・ドラッカーから経営学の方法論を学び、それを教会活動に取り入れたカルフォルニアのサドルバック教会のリック・ウォレン牧師らしい)。


そこで、改めて信仰にとってのビジョン、計画の意味について考えてみることにした。将来は神の御手にある、人間には不可知であって神がお造りになる、ということと人間が将来を描く、ということはどう調和するのか。


これは、神の業と人間の業の関係ということにもなろう。創世記によると神は無から世界を創造されたわけだが、その創造の頂点として人間をお造りになり、世界の管理を委託された。


つまり、神の創造の業は人間が働くための前提であって、決して人間が働くことを不要とするのではなく、人間が働くようにそれをお任せになるのである。


かといって神は創造の業を人間に任せてご自分はなにもしないのではない。


むしろ、神は創造の業を続けるために、人間をお用いになる。


神は人間にご自分の業に参加するよう求められるのである。これが神の業と人間の業の関係である。


このことからすると、将来は神の御手のうちにある、ということは真実であり、また将来は神が創造される、ということも確かであるが、しかしそれは人間の計画、ビジョンを不要にはしない。


むしろ、神はそれを求める。私たちには神の偉大な計画、ビジョンが与えられている。それは天地創造に始まり、終末に至る聖書の描く神の計画である。


そして、その計画を実現するために、神は私たちを用いられるのである。


この計画を実現するために、私たちに働くことを求められる。私たちがビジョンを描く、計画を立てることは、神の計画の実現に参加することなのである。


神が希望に満ちた将来を実現しようとしておられるなら、私たちもそれを自分にできる限りのことをして思い描き、計画する。こうして、私たちは神のビジョンの実現に参加するのである。


そして、私たちのビジョンが正当であるのは、ただそれが神のビジョンと合致している時だけである。


もし合致していないなら、神はそれを覆される。しかし、合致しているなら、そのビジョンを実現するのは神ご自身である。

 

「将来は神のものだから、ビジョンは必要ない」というのは神の業に参加しないクリスチャンの怠慢となるし、「人間のビジョンによって人類の将来は作られるのだから、神は必要ない」というのは人間の傲慢となる。


この両者は共に間違いである。「神がご自分のビジョンを実現されるために、私たちはビジョンを描くことによってその神の業に参加させていただく」のである。

ビジョンを描くことは、神の与えてくださる将来を真剣に考えるのならば、

私たちのだれにとっても一つの大切な課題である。


私たちは自分に与えられている責任の範囲に応じて、ビジョンを描くことを神に求められているのである。

 



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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