「信仰義認」という教えがあります。
「イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、私たちはあらゆる罪が赦され、神と正しい関係を回復することを許される」ということです。
この教えから、「神様の愛も、無条件の愛ではないのだな。信仰という条件がないと、神様は愛してくれないのだ」と短絡的に考えてしまうこともあると思います。
信仰を、「私たちが神に差し出すべきなにか」として考えてしまうのです。
「信仰」という神にとっての「メリット」を出すことによって、「救い」をそのお返しに買うことができる、そういう相互関係があるように感じてしまうのです。
しかし、これはまったくの誤解です。
「信仰」とは、神に私たちが差し出すことができるような、神のメリットになるようななにかではありません。
むしろ、ただ「すでに神がキリストにおいて、愛してくださっている」という、この「すでに」の愛を、私自身がただ受け取り、受け入れることを言うのです。
信仰は、たとえて言うなら、神に差し出す「捧げもの」というよりも、神に命の水を求める「空のコップ」なのです。
信仰に実体があるのではなく、信仰はただ神の恵みを受け取る器に過ぎず、信仰そのものに価値があるわけでもありません。
その信仰を通して私たちが受け取ることが許されている神の恵みにこそ、絶大な価値があるのです。
ただ、その恵みは信仰によってしか受け取れない、ということです。
「あの人は信仰深くて立派だ」とか、「わたしの信仰は薄い」という言い方があります。
もちろん、その「空のコップ」が大きいか、小さいか、ということは、ある程度人によってあるでしょう。
神を求める情熱にも、各人によってそれぞれ違いがあります。
しかし、その信仰というコップが「空である」ということには、違いはないのです。
コップの大小ではなく、そのなかに注がれている神の恵みの水にこそ、私たちを救う力があるのです。
以上のことは、微妙な問題かもしれませんが、重要な意味があります。
それは、「本当に大切なのは、私たちの信仰というよりも、その信仰を根本から満たしている神の無条件の恵みなのだ」ということです。
私たちの信仰は、不安定なものです。動揺することがあります。
しかし、神の恵みは動揺しませんし、変わることがありません。この神の恵みへの信頼が、私たちの信仰を確固としたものにするのです。
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「神を信じる」ことは、「恵みを受ける」「祝福される」というプラス面がありますが、もう一つ大切な面があります。
それは「自分に死ぬ。無になる」ということです。
私たちは神に向き合うとき、「もっと恵んでください。もっと祝福してください」と、恵みや祝福ばかりを祈りがちであると思います。
それは信仰の一つの側面として、許されていますし、神の御心の実現を求めて、おおいにそのような祈りに打ち込むべきこともあると思います。
しかし、同時に必要なのは、私たち自身の内部にある、「さらに恵まれ、祝福されるのを邪魔しているなにか」が打ち砕かれ、取り除かれるということです。
この「死ぬ」「砕かれる」「取り除かれる」というところがないと、新しい恵みを受けることはできないのです。
私たちが病気になるとき、挫折するとき、人間関係が破たんするとき、それは大きな苦しみですが、同時に「自分に死ぬ。無になる」という意味においては、恵みを受けるための準備を受けているときでもあるのです。
神は、私たちという「器」を試練を通して空っぽにします。
「傲慢」「自己保身」「自己満足」「安逸ばかりを求める心」・・・こうしたものを、神は私たちに苦しみをお与えになることによって取り除かれるのです。
これは神の手術のようなもので、非常に痛くて悲しいため、だれもが嫌がることです。
しかしこれを受けないと、新しい恵みが私たちのうちに入ってくることができないのです。
神は新しい恵みのための余地を私たちのうちに開くために、このような手術をされるのです。
私たちは「裁かれることを通して救われる」存在なのです。
私たちは、日々自らを省みて、「悔い改め」をするように求められています。
「悔い改め」は、神に全身全霊を向きなおることですが、同時に自分にうちなる信仰の障害物を「捨てる」ということです。
神に従うことを妨げているのを、「捨てる」ことが悔い改めの一部なのです。
私たちが信仰に停滞し、行き詰っているときは、なにかを「捨てる」ことを求められているのかもしれません。
「自分に死ぬ」「無になる」「捨てる」ことによって打ち開かれてくる世界があることを、心のうちに覚えたいと思います。