信じるとはなにかを「得る」ことなのだろうか。「なにか価値ある者」になることだろうか。
信じるとは、人から誉めてもらえるような価値なのだろうか。
信じるとは、なにかそこに有意義なものが存在しているような、そういうものなのだろうか。
人はだれしも、「自分自身のパワー」を持っている。もしくはなにかしら価値あるものを持っている。
だれでも、そういう「これだけは自分は人に誇れるぞ」というものを努力を重ねて手に入れて、そしてそれを道具として生きているのだ。
そういう「私のパワー」「私の価値」に私たちはしがみつきながら、これを自らの生きる源としながらやっているのである。
だが、信仰が与えられるとはこういったいろいろな価値あるものにもうひとつの価値が加えられるということなのだろうか?
信仰は「付加価値」なのだろうか?
自分がいろいろな価値あるものを持っていて、それにもう一つ信仰というものが加えられて「よかったよかった。私はまた一つ豊かになった」と喜ぶことができるようなものなのだろうか?
信仰によって、私たちはより豊かにされ、価値ある者とされ、より人に尊ばれる存在となるのであろうか?
私たちは信仰によって「あの人は信仰があるから、やはり一味違う」と言われる人物になるのだろうか?
信仰とはそういう、人と差異化をはかることができる「善いもの」なのだろうか?
信仰が与えられることによって、「私のパワー」が増し加えられてより一層幸せになる、そういうものなのだろうか?
私は長くこのような誤解をしてきたように思う。信仰するとは「有」になること、「価値あるもの」になること、「私のパワーが増強される」こと、そういうものと考えていたふしがあった。
しかし、実は信仰はそういうものではまったくなかった。神の恵みを受け入れる信仰とは、実はその正反対のこと、つまり無になることだったのである。
「私の価値」「私の知識」「私のパワー」こうしたものが死んでしまうことである。私の内側にある様々なものが死んで、私が空っぽになることなのである。
私が空っぽになるとどうなるのか。そこに神の恵みが入ってくる。この世は人間の「私パワー」で回っている。これをどう利用するかがこの世の知恵なのだ。
この「私パワー」を引き出し、増強し、拡大することがこの世の教えの示すことである。
だが、信仰はこれとは逆方向を行くのだ。つまり、私はむなしくなり、空っぽ、無になる。
すると、そこに「私パワー」とは質のまったく違う、永遠の神の力が流入してくる。
そして、この世ならぬ力によって私は生かされるものとなる。私が無となったとき、そこは神の力が働く場となる。
こうして、この世では通常考えられない恵みの世界を体験させていただける。これが信仰である。
この世のすべての方向性は、「私パワー」を高めることに向けられている。
この世の書籍も、音楽も、すべてはこのパワーの増強が目的なのだ。
だから、こういうものに染まっているときには、信仰の力には考えは及ばない。
ところが、こうした私の力が消えて、私が空っぽになっていくとき(そういうことをだれしもいつか経験するのだが)、実はそこにまったく新しい神のエネルギーが入ってくる契機となる。それを受け入れるのが信仰である。
そして、不思議なのはここから先である。
私が「私パワー」に死ぬと、まったく無力に弱くなるように思える。それは実につまらない、ひ弱なことのように思える。
しかし実はそのときこそ「私パワー」は神によって清められて、その本領を発揮することができるのである。
私が無になって、信仰に生きれば生きるほど、私が「私パワー」ではなく神の力に生きれば生きるほど、私はいよいよ輝き、喜びと充実、感謝と賛美、力と忍耐は強められるのである。
私自身が無になってこの世のものならぬ神の力によって空っぽの私が満たされる、私を通して神が働かれる、これこそが信仰であり、真実の力なのだ。