ラインホールド・ニーバーは有名だ。
日本でも彼を研究している人は多い。しかし、弟のリチャード・ニーバーについては、どうも影が薄い気がするのは気のせいだろうか。
しかし、私自身は兄のラインホールドよりも、リチャードの方が「教会的」であると感じる。
兄は政治的にも大きな影響力があったし、有名でもあった。
彼の神学的功績を疑う者はいないだろう。しかし、リチャードの方が地道に神学し、教会に貢献してくれたように思う。
カール・バルトなどの弁証法神学をまっすぐに受け継いで、それをアメリカの土壌で発展させたのは、リチャード・ニーバーであると個人的には考えている。
カール・バルトがそこまで進みきれなかった、福音の「文化」や「社会」に対する射程を、リチャードは明らかにしてくれた。
『責任を負う自己』には、私自身大変感謝している。この書物によって、キリスト者の生き方をおおいに教えられた。
ニーバーは倫理的類型を三つに分ける。
「製作する人間」
これは、ビジョン・理想・青写真を心に抱いて、そのイメージに基づいて人生や社会、物事を形成していこうとするあり方だ。
経営者やビジネスマン、芸術家など、このあり方を求められる働きは非常に多い。
この生き方をするときに追求していくのは、「善」だ。
「なにが善であるのか」を追求し、その善を実現しようと、奮闘していく。
「法則に従う人間」
これは、人間として守るべき正しい法則をたてて、それをどこまでも遵守するようなあり方だ。
「市民的人間」としての在り方としてニーバーは特徴づける。
教育や政治などは、この領域と言える。
追求するのは、「正しさ」だ。「なにが人間として正しいことであるのか」を追求し、これを実現しようとする。
「責任を負う人間・応答する人間」
これは、自分を取り囲む共同体や社会、特に神ご自身からの「問いかけ」を聞き取り、それに進んで応答していく在り方だ。
自分の周囲に響いている声に耳を澄ませ、「なにが起こっているのか」を見分ける。
そして、「今起こっているのは、こういう事態である」とその出来事を解釈し、それに基づいて自分なりに適切な応答を試みる。
行為の「善」や「正しさ」というよりも、「ふさわしさ・適切さ」が追求される。
ニーバーは、前二者について、捨て去ろうとは言わない。
これらを否定しない。これらを大切な在り方として受け入れたうえで、しかしこれらだけでは不十分であると結論する。
第三の倫理的類型である「応答する人間・責任的人間」の在り方が、要請されていると考える。
前二者については、「個人」の枠を突破することが難しい。
個人的な成功や幸福といったことについてはよいかもしれないが、社会的な課題や共同体的な事柄については、なかなか射程内にはいってきにくい。
社会的かつグローバルな課題が山積する現代において、前二者で事足りると考えることはできない。
やはり、時代の声に耳をすませ、現実で起きていることをしっかりと見分け、それに適切に応答し、解決を提供していくことができるような生き方が求められている。
聖書を読むこと、教会に出席することは、こうした「現実の解釈」の基盤を提供してくれる。
御言葉によって「責任を負う自己」としての土台が形成されるのだ。
キリスト者は、神の言葉を聞き、教会の声を聞き、社会の声を聞き、時代の声を聞くことで、それらに対して適切に応答し、ソリューションを提供するよう召されていると言える。
ニーバーは、極めて「現代的」な神学者なのだ。
彼の著書の弱点は、抽象度が異様に高いことだ。
ぼんやり読んでも、なにを言っているのか、わからなくなってしまうことが多い。
精神的に集中して読むことを求められるので、読むのがしんどく感じられることもある。
しかし、彼の著書をよく読み、理解することは、生涯の財産となることは確実だ。