リチャード・ニーバーの残した重要な著作は、『キリストと文化』だろう。
ニーバーはこの著作のなかで、教会が文化とどういう関係性をもつのか、それを5つの類型に分けて考察している。
ニーバーは、まず代表的な類型を二つあげる。これが教会と文化の関係性の、「両極」にあたるものになる。
第一は、「文化に対するキリスト」の類型だ。つまり、「文化」と「教会」が互いに「対抗関係」にある、という形だ。
古代から、非常に熱心なキリスト者たちが、世俗の文化を完全に否定する形で信仰をとらえた。ニーバーはその代表としてテルトゥリアヌスやトルストイをあげている。
世俗の文化は、悪魔的なものであり、神と敵対状態にある。
「文化」は罪に染まっており、これに対する態度としては、文化を「避ける」ことが最善である、という立場だ。
ニーバーは、こうした立場に、徹底的に神を信じた熱心なキリスト者たちの姿を認めている。
こうしたキリスト者たちは、世俗の文化の腐敗や無神性と闘争したという限りにおいて、偉大であると言える。
しかし、この立場の熱烈な情熱については理解を示したうえで、ニーバーはこのあり方はまったくもって不十分だ、と批判する。
文化を否定し、文化を避けようとしても、それは人間には根本的に不可能なのだ、ということに示されている。
そもそも、こうした文化否定的なキリスト者も、文化から借りてきた思考法や言葉を使って神学をしている面があるのだ。
なにより、主イエスご自身も当時のユダヤ文化のなかの言葉や論理をもって、神を説かれている。
もっといえば、聖書そのものがエジプトやオリエントといった文化圏のコンテクストのなかで編集されてきたものだ。
文化の神学的な全否定は、結局のところ神学不能の状態にまで導くことになってしまい、自縄自縛になってしまう。
もう一方の極としてニーバーがあげるのが、「文化のキリスト」の類型だ。つまり、「文化」と「キリスト」がまったく合致・一致している、という類型だ。
つまり、教会と世俗の文化が互いに協力し、互いに摩擦や緊張関係がなく、共に前進していくようなケースだ。
「文化」と「教会」が互いに手を取り合っている関係性だ。
ニーバーは「自由主義プロテスタンティズム」のなかにこの類型を認めている。
さきほどの「文化に対するキリスト」の正反対の形だが、ニーバーはこれにもよい点があることをしっかりと語る。
教会と文化が協力することで、福音が社会のコンテクストに根付いて前進した面があったことをはっきりと認める。
しかし、同時に弱点があることも指摘する。
この類型では、教会は文化と同調することによって、教会本来の独自性を失ってしまう、ということだ。
教会や信仰理解が文化によって規定されるあまり、文化とは異なる教会の在り方まで、文化によって浸食されてしまうのだ。
つまり、教会が世俗化してしまうということだ。
ニーバーは、この二つの「両極」の類型をまず描くことによって、教会を極端な文化理解から導き出そうとする。
文化は悪魔的なものか、神的なものか、といった「あれか・これか」で割り切ってしまう浅薄な理解を退けるのだ。
私たちは、白黒はっきりさせてしまった方が、それ以上考えなくてよくなるので、精神的に楽だ。
しかし、ほとんどの場合、真理は白と黒の間の「グレー」のところにある。
「キリストと文化」という課題においても、この「グレー」の領域に、命の道が備えられているのだ。
この両極端の類型ではなく、「中道的」なバランスのとれた理解として、ニーバーは三つの類型を提示する。
それを次の記事で書きたいと思う。