リチャード・ニーバーの神学的立場は、わたしにとって非常に親近感をもてるものだ。
彼は『啓示の意味』という著作のなかで、彼は自らの教師について、「バルトとトレルチ」だ、と述べている。
バルトは、いわずと知れた「啓示の神」について、最後まで考え続けた神学者だ。
「人間、社会、歴史、自然が問題なのではなく、神学が問うのは神なのだ」ということを、はっきりと宣言した。
それに対して、トレルチは信仰を社会的・歴史的コンテキストのうちにあるものとして考えた。
トレルチの考察の方向性は、バルトの「垂直型」と比較すれば、「水平型」とも言える。「上からのキリスト論」がバルトだとすれば、「下からのキリスト論」と言えるかもしれない。
とにかく、トレルチは信仰、教会という主題を、具体的な社会と歴史の文脈にしっかりと置く中で、思索をした。
えてして、「バルトとトレルチ」というのは、その方法論や神学の性格からいって、敵対的な関係にならざるをえないものを持っている。
バルトから見れば、トレルチは「神学の独自性を放棄している」ように見えるだろうし、トレルチからすればバルトは「歴史や社会を抽象する、思弁的神学だ」と見えてしまうかもしれない。
互いに、立ち位置が異なっている。
リチャード・ニーバーは、この互いに対立しかありえないかに思える「バルトとトレルチ」を自らの教師とすることで、互いの「真理契機」を汲み取り、両者を新しく昇華するような神学を求めた、と言える。
リチャードは、「神の啓示がなによりも大切だ」とはっきりと言う。
キリスト者も教会も、神の啓示なしにはまったく存在がありえないことを語る。
神の啓示を希薄化していくような流れに対しては、まったくのノーをつきつける。
同時に、「神の啓示は現実の歴史と社会のコンテクストにおいてしか起こりえない」ことを、しっかりと受け止める。
現実から思考がふらふら遊離していくような、「仮現論」的な神学に決別する。
地上を生きる教会とキリスト者の現実以外に、神学の位置はない、と断言する。
バルトは、「啓示こそ大事だ」と言いつつ、社会から遊離していく面がある。
トレルチは「具体的現実こそ大事」と言いつつ、神の啓示と信仰まで相対化していくところがある。
リチャード・ニーバーはこの両者の弱点を批判しつつ、「啓示」と「社会的・歴史的コンテクスト」のあいだにあって、しっかりと大地に根差して神を仰ぐ信仰と神学の道を説いているのだ。
彼の著作は非常に短く、簡潔なものが多いが、難解でもある。
しかし、その内容の密度や重要性においては、他の神学者の間で卓越していると思う。
現代の教会的神学は、彼のたどりついた立場から、新しく発展していかなくてはならないと、個人的に強く思っている。