『キリストと文化』では、まず「両極端」の類型を挙げる。
「文化に対するキリスト」と「文化のキリスト」だ。前者は、キリストと文化が対立関係にある類型であり、後者は文化とキリストが手を取り合っている類型。
この両極の間の「グレーゾーン」に、ニーバーは三つの類型を描く。
それが、1「文化の上にあるキリスト」、2「矛盾におけるキリストと文化」、3「文化の変革者キリスト」の類型だ。
1の「文化の上にあるキリスト」とは、「文化」と「キリスト」を段階的・階層的な秩序としてとらえて、文化とキリストを総合しようとする見方だ。
ニーバーはこの代表者としてトマス・アクイナスをあげている。
トマスは「恩寵は自然を破壊せず、これを完成する」と考えた。
神の恵みを受けることは、教会生活するのみならず、市民的生活、職業生活、政治生活、家庭生活などの領域に対して、助力を与えるものであるとする。
こうしたキリスト者でない人々にも共通している生活のうえに、キリストを信じる信仰生活がある。
両者は段階的で階層的な秩序のうちにあり、どちらも大切であるのだが、キリストにある生活の方をより尊いもの、尊厳あるものと見ようとする。
こうした神学体系によって中世社会は成立していた。
日々の生活の上層に信仰生活があり、そのさらにうえに修道生活がある。
この類型は文化とキリストの両者をしっかりと受け止めるという点で優れている。
しかし、ニーバーはこの類型の弱点は、キリストにある生活の独自性や特異性が掘り崩されてくる側面がある、と指摘する。
つまり、こうした文化とキリストを総合しようとする見方においては、どうしても「文化」の方が比重として大きくなってきて、「キリストにある生活」よりも、「キリスト教世界・文化」を維持することに腐心するようになってしまう危険性があることを見て取る。
2の類型として、ニーバーは「矛盾におけるキリストと文化」をあげる。
これは、「両極」のところであげた「文化に対するキリスト」とは違うものだ。
「矛盾におけるキリストと文化」の類型は、「神」と「人間」が根本的に敵対関係にあることを認める。
人間には深刻な罪があり、その罪は文化の全領域に浸透している。
文化全体が罪の支配のもとにある。
人間は神と和解し、神の恵みを受けることによって、罪の文化に対して矛盾的で緊張した関係に立つことになる。
キリストと文化はまったく異なるものだと認識しつつ、その文化に関わり、文化の罪の性質についてわかっておりなっがらも、なお文化をさらに推進するように歩むことになる。
この類型の代表者として、ニーバーはマルティン・ルターをあげている。
ルターが「二項対立的」な矛盾と緊張の関係性に立ちつつ、その緊張のなかから前進していこうとする神学を構想したことを描いている。
この類型の弱点は、文化を「変革」しようとはせず、「保守的になる」ことだとニーバーは語る。
キリストと文化を区別するあまり、それによって文化を保守的に守っていくことに汲々とするようなあり方になってしまう危惧がある。
文化を変革する、という推進力が出てこないのではないか、というのだ。
そして最後の類型として、「文化の変革者キリスト」がある。この代表者はアウグスティヌスだ。
この類型は、1「総合」の類型とも、2「矛盾」の類型をも引き継いでいる。
キリストと文化を受け止めることにおいては1を受け継ぐし、キリストと文化の区別や違いを認めることにおいては2を受け継ぐ。
1と違うところは、この3の類型はキリストにおける生活をその独自性においてしっかりと受けとめる。
2と違うところは、この類型は文化という創造の秩序は、罪に染まっていながらも、なお神による創造において「善」である、という点を見失わない。
神の恵みを受けることによって、キリスト者は罪のうちにある文化を、よりよく改善するよう召されている。
神と和解したキリスト者は、文化そのものが罪なのではなく、それが罪によってゆがめられていることを自らの課題とする。
そして、文化のうちに備えられている神の善を働くことを通して回復しようとするのだ。
文化と自らを切り離すのでもなく、一体化するのでもなく、距離を保ちつつ、批判的に関わり、文化を神の創造の善の姿に回復させるために、働きかけていくのである。
ニーバーは、この3の類型が最も好ましいと考えているようだが、しかし他のすべての類型にも「真理」があることをしっかりと認識する。
そこで、最終章では「信仰の相対性」について語られる。信仰の真理は絶対的なものではなく、断片的なもの、相対的なものだからこそ、私たちは自分たちにできる限りの認識をして、真理に対して決断していかなくてはならない、と語る。
ニーバーはこれら5つの類型を取り上げることで、教会が文化にどう相対してきたのか、そのモチーフを簡潔に描いてくれている。
非常に教えられるところが大きい。この類型について知っているのと知らないのとでは、文化を考えるときの「前提」が完全に違ってくる。
これは「必読」の類の書物であると感じる。
この主題について思うところを、また別の記事に書きたいと思う。