リチャード・ニーバー 『キリストと文化』について③

 H・リチャード・ニーバー — Google Arts & Culture

私の母校、東京神学大学の現在の学長の芳賀力先生の教えから、「キリストと文化」について大事な示唆を受けたので、それを分かち合いたい。

 

ニーバーによると、キリストと文化の関係性には二つの「両極」の類型と、その間にある三つの「グレーゾーン」のバランスのとれた類型がある。

 

「文化に対するキリスト」 文化とキリストの対抗関係


「文化のキリスト」 文化とキリストの一致関係

 

「文化の上のキリスト」 文化とキリストの総合関係


「矛盾におけるキリストと文化」 文化とキリストの矛盾的・弁証法的関係


「文化の変革者キリスト」 文化とキリストの変革関係

 

ニーバーは、最後の「文化の変革者キリスト」の関係性が、最も望ましいと考えているようだ。


というのも、この類型は「文化の上のキリスト」と、「矛盾におけるキリストと文化」の弱点を受け止めたうえで、この両者を昇華するような類型だからだ。

 

しかし、芳賀力先生に教えられたことだが、これを「日本社会」というコンテクストで考えると、どうだろうか。

 

日本のキリスト教会は、日本文化の変革者として、歩むことができるだろうか。


日本の教会で語られているキリストが、日本文化をキリスト教的なものへと変化させていく力になっているだろうか。

 

もちろん、これに対してある程度の肯定を与えることはできる。


日本社会は、キリスト教の思想や倫理から多大な影響を受けてきたし、今も受けている。


西洋的なものの考え方を取り入れるということが、間接的にキリスト教神学の影響を受けることでもある。

 

しかし、日本の人口の1%に満たないキリスト者の群れにあって、日本文化をキリスト教的なものに変革するというのは、あまりにも「荷が重い」のではないだろうか。


「非現実的」ではないか。

 

「文化の変革者キリスト」の類型は、その文化のうちでのキリスト者の人口比率が高いところでは、現実的になるが、日本のようなコンテクストにおいては、実現可能性が非常に低くなる。

 

類型としては好ましいのは理解できるが、その実現に無理があるのならば、私たちの文化に適合した類型を改めて検討しなくてはならない。

 

そこで芳賀先生が言われるのが、「文化に証しするキリスト」の類型だ。

 

これは、その社会の文化に対して、「別の文化の在り方もあるのだ。キリスト教的な文化という、代替的な文化もあり、これが一般文化にはない、独自の素晴らしさがあるのだ」ということを、文化に対して証ししていく類型だ。

 

一般の文化を「変革」できるかどうかは、わからない。


しかし、文化に対して、「キリストにある生き方」を証しし、それに基づく文化や社会の在り方を忍耐強く提言・証言していく。

 

そうした証しによって、長期的に一般の文化に対してキリスト教的な影響を与えていこうとする立場だ。

 

私は、日本社会においてはこの類型が最も適切だと思う。

 

文化を変革することはできなくても、少数者ながら、文化の別の在り様を模索・提案し続け、それによって「地の塩」として「キリストの香り」を日本文化に与えていくことしか、日本の教会はできないのではないか。

 

ある意味では、これが聖書的な類型でもあるように思う。


新約聖書においては、キリスト者が社会の人口比率の多くを占める、という事態が想定されているとは思えない。


むしろ、キリストを信じる者はどの時代においても少数者であり、この小さな者がキリストの霊的影響力を保持し、社会に静かなインパクトを与え続けるのではないか。

 

一般の文化に対して、地道に忍耐強く「キリスト教的文化」の可能性を提言し続ける教会でありたい。



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