個人的にこの著書は思い入れをもって書いたものだが、それと反比例するかのように、それほど読まれていないものだ。
その理由は、この著書が牧師の説教の課題を主として扱っている、という風に思われて、信徒の方々は「自分とは関係のないこと」という印象を受けるからだろう。
もちろん、本書は説教を「する」側の課題についても描いている。
しかし、実は本書がより焦点を向けているのは、説教を「聴く」側のことだ。
そこがご理解いただけていないために、おそらく「きっと難しいのだろう」という印象を与えており、敬遠されていることが推測される。
本書は、礼拝説教がどこまでイエス・キリストを中心としたものであるのかを、いろいろな角度から問いかけており、教会の中心にキリストがいてくださる教会形成の在り方を展望している。
そのことによって「説教をどう聞くか」、また「牧師と共に、会衆はどういう理解と前提を共有しながら成長していくのか」という課題を解き明かしている。
説教者は自らの説教奉仕を改善していく責任があるが、教会の会衆は説教の「聴き方」を改善していく責任がある。
安定して成長する教会には、必ず成熟した会衆の存在があり、その人々は教会の伝統を正しく受け継ぎつつ、説教を聴く在り方を体得している。
そのため、牧師が辞任して新しい牧師が着任しても、その教会は何事もなかったかのごとく、成長を続けていくことができる。
それは、牧師の実力よりも会衆の「信仰に基づく聴き方」がよく訓練されており、優れているからだ。
会衆が成熟していない場合は、牧師の交代によって教会が激変したり、衰退したり、場合によっては分裂したりすることもある。
教会の実力というものは、牧師だけによるものではないからだ。
むしろ、福音を聴き、それに応答する会衆の成熟の度合いが、教会の実質的な実力そのものであると言える。
牧師が説教者として成長し、会衆が説教の聴き手として成長していくことが、教会の成長の内容だ。
そこで、本書では「宗教改革の伝統を継承する福音の純粋な説教とはなにか」という最も基本的な部分を確認することで、そういった教会の姿勢に資することを期待して、書かれた。
本書をじっくりと繰り返して読み解くことで、説教を聞いたとき、「どこに課題があるのか」を鋭敏に見抜く感性が養われていくことを願っている。
「なにが福音であり、なにがそうでないのか」
「本物の説教とはどういった性格のものであるのか」
こういった「真理感覚」が養われることで、教会は成熟に向けて新しい歩みをすることができる。
これまで本書は、それほど多くの人には読まれてこなかったという印象が強いが、このブログをきっかけにご参考にしていただければ感謝である。
ここで差し出されている問いは、なお多くの事例において未解決のままにとどまっており、なお本書は伝えるべきメッセージを担っていると個人的には思っている。