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教会とはなにか⑤ 「聖徒の交わり」・「天国の予告編」としての教会

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「教会とは聖徒の交わり」であることを描いてみる。


「聖徒」とは「キリストのものとされた人」のことだ。


そういった人々による交わりが教会である、ということは「教会の交わりの成立の根拠・目的・本質はすべて、イエス・キリストである」ということにほかならない。


つまり、教会で「わたしとあなた」が「共にいる」ことができる根拠や目的は、ただ「イエス・キリストが私たちの間におられ、このキリストの御意志に私たちが従っている」ということにおいてのみである、ということだ。


私か、あなたかがキリストから離反したり、どちらかがキリストに対する忠実さにおいて大きく欠落しているなら、そこでの交わりは危機に瀕するということだ。


教会は「イエス・キリストを共に仰いでいる」という限りにおいてのみ、「神の平和と祝福」によって守られ続ける。


キリストの力と権威によって教会は存立し、私たちの交わりの力と平和はただ、キリストにかかっている。


互いの人間的魅力や人間関係的技術といったものは、教会では無に等しいものにすぎない。


こういったところにより頼む姿勢を、聖書は「神の前に愚か」であるとたびたび警告している。


それにもかかわらず、だれかがキリスト以外の方向を向き、キリスト以外の原理原則を教会に導入し、キリスト以外のやり方によって教会を運営し、キリスト以外の意志によって教会の交わりを立てようとするならどうだろうか。


そこでキリストは不在となられるか、もしくはそういった交わりを裁きによって清められるかが、なされなくてはならなくなる。


「聖徒の交わり」である以上、「イエス・キリスト」以外の「なにか」がそこに据えられたら、キリストはそれを打ち砕き、取り除くか、ご自分がその交わりから退かれるかしか、なさりはしない。


教会では、「人間としての地位、名誉、肩書、能力、技術」は、神の御前に交わりの根拠や力にはならないのだ。


教会の交わりは、「ただイエス・キリストのみ」によって成立している以上、このお方を私たちが一筋の心で仰ぎ続けるところにおいてだけ、立っていくことができる。


私たちは常にキリストに向き直る悔い改めをしながら、教会建設の業にあずからせて頂く以外にはない。


「キリストの力、権威、平和、祝福」だけが、教会が生きていくことができる源泉そのものなのだ。

 

 

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「教会は天国の予告編」であることを書いて、「教会とはなにか」シリーズを終えたい。


教会がこの世に存在していることの意味は、「神に支配された共同体がそこにある」ことであり、「神の国が信仰において実現している」ということだ。


教会は、「天国の予告編」を味わうことができる場所である、ということにもなる。


礼拝で御言葉を受け、祈り、賛美歌を歌い、兄弟姉妹との交わりを持つとき、そこで私たちはごく断片的な形であっても、「天国の前味」を味わっているのだ。


教会に出席して信仰を深めることは、世の終わりに完成する神の国の力を先取りして経験することで、神の支配の恵みのなかに生き続けることを意味する。


「天国とはどんなところか」ということが、教会での「礼拝」や「交わり」のなかに、「暗示」のように示されている。


それは明白なものではなくても、到来して完成する天国を信じるには、十分な「しるし」がある。


教会でキリストの救いの御業に出会い、洗礼と聖餐にあずかることは、天国の喜びの先取りなのだ。


同時に「予告編」があるということは、「本編」があるということでもある。


教会で信仰を深めることは、やがて訪れる本編としての天国に向けての「準備」をする、という性格を持っている。


天国での生活は、「神への愛と隣人愛」が純度100%の状態になることだ、と言って過言ではない。


地上にあっては原罪の影響から完全に免れるわけにはいかないが、「天国の完成に向けて備える」ことは、「原罪と闘い、これを神によって清められながら、神への愛と隣人愛の向上と前進に勤しむ」ことだ。



教会生活のなかで与えられるあらゆる病や試練、困難などは、すべてこのような「準備」のためにある意味では必要なものであり、避けて通ることはできない。


「聖化される」ことについて、聖書は「火で精錬される」たとえが使われている。鉄の純度が高められるためには、炉の中で不純物が除かれ、鍛えられなくてはならない。


同じように、私たちも地上にあってもだえ苦しむとき、それは魂の次元においては不純物を除かれ、神の国への準備を聖霊ご自身によってして頂いているのだ。


天国で実現する完全な歓喜と、地上での戦いの歩みの緊張のなかを、私たちは希望を抱いて旅をしていく。


それが教会であり、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げながら、前へ前へと歩を進めるのだ。

 


教会とはなにか④ 「神殿」・「主のぶどうの枝」としての教会

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「教会は神の神殿である」ことを記してみたい。


エフェソの信徒への手紙に、教会が「神殿」であるという比喩が語られており、パウロもコリントの信徒への手紙で「あなたがたは神の神殿」である、と語っている。


そのことの意味は、「教会には神が宿っている」ということであり、「教会そのものが神の臨在を証ししている」ということだ。


つまり、私たち教会は「神が実在しており、働いておられる」ということを、存在を持って公に社会に証ししているものであり、私たちの存在自体がこの世に対して、


「あなたがたは、神はいないと思っているかもしれないが、私たちは自らの人生をもって神が生きておられることを告げるのだ」というメッセージを伝えていることになる。


私たちは無言のうちにもこういったメッセージをこの世に発散しており、


だからこそ世の人々に「煙たがられる」ことをも味わうよう定められている。


この世にとっては、「神を信じていないあなたがたの生き方は間違っている」というメッセージを、私たちの「存在」によっていつも暗示されため、教会の存在を無意識的にも不愉快に思うからだ。


このように、私たちは世の中に無言のメッセージを伝える神の神殿として、神の実在を告げていくために、「互いに組み合わされ、支え合う」ことなくしては歩むことは不可能である。


厳しい嵐が吹きすさぶ世界にあって、教会という神殿は「互いに組み合わされる」ことが、建っていくために絶対的に必要なことだ。


石材や土台や柱といったものが互いに緻密に組み合わされ、互いに支え合ってこそ、神殿は神殿としての存在を保つことができる。


互いに「隙間」や「ひび」があまりにあるなら、瓦解してしまう。同じように、私たちもまた自分自身教会に支えられながら、教会を支えることによってしか、神の民の一員として神の御前に立つことはできない存在だ。


各自が「神殿の一部」であるということは、「支え、支えられる」ことからは逃れられないことを意味している。


教会は「イエス・キリスト」という「隅の親石」を土台として、「使徒と預言者」の伝統を柱として建てられているが、これらの土台と柱を「素材」である私たちが重んじて身を託さないなら、根本から脆弱な建物にならざるをえない。


また、「自分が教会を支えなくても、だれかが支えるだろう」という「お客さん」のような態度であるなら、教会の本質に背くため建つことなどできない。


私たちは否応なしに神の神殿の一部とされた存在であって、そういった固有の在り方から逃れることはできないのだ。


キリストの恵みを宿し、互いに組み合わされて支え合うことなしには、歴史的に存立しえないものであることを心に銘記したい。

 

 

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「教会はぶどうの枝である」ことを記してみる。


主イエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)と言われているが、これはまず「教会はイエス・キリストというお方から養分を頂くことによって、初めて生きて成長することができる存在である」ということだ。


私たちはキリストにつながっている限りにおいて、このお方から栄養をいただいて、「枝」として「実」を結ぶことができる。「枝」は実を結んだからといって、誇ることはできない。


その実の内実となっている栄養はすべて、キリストという木の本体から受けているに過ぎないからだ。


「枝」によって大切なのは、とにもかくにも本体の木に「つながって、栄養を受ける」こと、そして自らの分に即して「実を結ぶ」ことだ。


一方、「わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる(ヨハネ15、1、2節)」と言われている。この「実」とはなんだろうか。これは「イエス・キリストの聖なるご性格を反映している言葉や生活」のことと言える。


ヨハネ15:3では、主イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と唐突に「わたしの言葉」について言及されているが、これは結ぶ「実」と無関係ではない。


私たちは「キリストの聖なる言葉」という「栄養」を受けることで、私自身も自分なりの「聖なる言葉と、それに基づく生活」を形成していくようになる。そのことが暗示されていると言えるだろう。


「キリストにつながっていながら、実を結ばない」ということは、ありえるのだろうか。これは現実的には教会で起こっている。


キリストの言葉を「聴きはするが、自分の人生と生活に取り入れて実践はしない」という誤った在り方をしていると、このように実態と実質のない偽物信者になってしまう。


キリストにつながるとは、私たちの「全身全霊」でつながるということであり、それは「キリストの言葉を聴くだけでなく、実践して自分の人生すべてにおいてキリストと一体化していく」歩みをすることにほかならない。


キリストは私たちのために文字通りの「心血」を注いでくださっている。


私たちがそれに応答して、このお方に「心血」を注がないなら、農夫である父なる神によって、「取り除かれる」危険が常にある、という「神の厳しさ」のことをも魂に刻みたい。

 

 



教会とはなにか③ 「聖」・「使徒的」である教会

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今回は教会が「聖」である、ということについて記してみる。

「聖なる」というのは、「道徳的に清い」というよりも、「神のために選ばれ、この世とは区別されている」という意味だ。


「教会は聖である」というとき、それは「この世とは異なる、神の所属とされているものである」ということになる。


現実の教会は、実際的には「聖」とはお世辞にも言えない面が多々ある。牧師や教会員一人ひとりが、どれほどこの世と区別された、神によって教えられた価値観・世界観で毎日を生きているかと考えてみると、非常に心もとない思いになる。


実際には、私たちは教会にきて「自分は神を信じている」と思ってはいても、「本音」の部分ではそれほど信仰を身に着けてはいない、というのが実態であろう。


私たちは説教を聴くときも、祈るときも、また教会で会議に出るときも、神の教えよりも自分がこの世で学んだ知識や経験を土台としていることの方が、ずっと多いのではないか。


「本音」の部分を神のまなざしに照らされて、なお「自分は神の教えに基づいて日々生きています」と言えるだろうか。


それにもかかわらず、「教会は聖である」と使徒信条においても、私たちが告白できる根拠はなんなのか。


それは、「神ご自身が、聖なるお方だから」である、ということだ。


教会は神の「聖」を太陽の光を反射する月のように、反映しているにすぎず、「聖」の本源は神ご自身である。


だから、教会としては現実的に聖なる性格を備えているように見えなくても、そういった教会に「聖なる神がなお臨んでおられ、なお働いておられる」という神の恵みによって、「教会もまた、そのような神が臨んでくださる群れとして、聖なるものである」と告白することができる。


このような「聖なる神」がご臨在くださる教会であるから、この神との交わりにあずかることで、教会は「聖なる性格」を礼拝ごとに更新して頂いているのだ。


聖なる恵みが与えられた教会は、「それならもう安心だから、ゆっくりしよう」と考えることはできない。もし、そう考えるとするなら、そこで受けている恵みは「聖なる」ものではない。


というのも、「聖なる」とは「この世とは異なる、特別な」という意味であり、この世ならざる新しい世界を常に目指しているものだからだ。


「聖なる恵み」を受けたのなら、「この世とは異なる価値観と生き方を体現し、キリストを証しする」歩みをたずね求めていくしかない。


ここに、キリスト者のたゆみない努力と向上の道が築かれる。「聖なる恵み」を受けることは、「聖なる歩み」をする責任をも、同時に否応なしに引き受けていることなのだ。


そして、もしその責任を果たさないなら、「聖なる恵み」もまた失われてしまうだろう。私たちは神の国の未来へと向かう旅人として、聖なる国を目指してなお進んでいるのだ。

 

 

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今回は「使徒的」という教会の特質について触れてみたい。


教会は「使徒的」である、という性格を元来持っている。この意味は、「使徒の伝統を継承している」ことに他ならない。


つまり、「使徒の精神をもって聖書を解釈し、生きる」ということであり、「使徒の伝統に連なるものとして、教会形成に従事する」ということだ。


それでは、「使徒の精神や伝統」とは一体なんなのか。


これは新約聖書の「書簡」を第一の源泉として、「使徒信条などの基本信条」、「古代教父」、「中世の福音的神学者たち」、「宗教改革者」、「近代の教会の伝統の継承者たち」、「現代の教師たち」などまで、使徒的精神は「教派」のなかに伝統として連綿として継承されてきている、それを「受け継ぐ」ということにほかならない。


聖書というのは、「ブラックボックス」だ、と言われる。


つまり、「主観的にいくらでも勝手に解釈できてしまう」ところがあるのだ。


「聖書解釈」をどのように適正な、力強いものにするのか、というのはキリスト者と教会の死活問題だ。


「どうすれば、聖書を正しく解釈し、救われることができるか」という問いは、私たちの最も大きな問いでもある。


プロテスタント教会では、その問いへの答えとして「使徒から継承されてきた伝統」を挙げる。聖書より二次的な意味合いにおいてだが、こういった「伝統」に基づいて聖書解釈の正しさは「検証」されなくてはならない。


そうでないと、各自が自分勝手に聖書を解釈してしまい、教会としての「一致」などはどこにおいても得られなくなってしまう。


一方、こういった「使徒的精神」を継承するといっても、個人的力量では限界がある。


信徒の立場では、いくら大部の神学書に取り組んだとしても、その知識には偏りが生じざるをえない。


そこで神学校で専門的に神学を修め、「使徒的精神」についての学びをし続ける役割を果たす教師、「教職制度」が必要になる。要するに、「牧師」たちの存在だ。


牧師の職務では「使徒的精神」をより深く広く過去の先人たちから継承している、ということが絶対的に重要な課題になる。


こうした伝統を身に着けることで、聖書解釈のより精度の高い「基準」を自分の内側に抱き、教会全体を正しい進路に向けて導くことが可能となる。


牧師は専門的に神学や他分野をも学ぶことによって、「使徒的精神」を現代に向けて解き明かし、現代の人々が受け入れることができるような形に展開していく責任をも担っている。


牧師の存在意義は、こうした「使徒的精神」を可能な限り深く広く身に着けることで、聖書解釈の基準を保ちながら、教会をまっすぐに導くことにある。


教会員もまた牧師からこうした使徒的精神に学ぶことで、自らのうちに聖書解釈の基準を培うことが、教会の成長にとっても極めて重要な課題となる。

 

 


教会とはなにか② 「公同」・「一」なる教会

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最近、日本基督教団では「公同の教会」ということが、強調されている。


教師検定試験でもこの主題について聞かれることが多い。この点に疑問符がついているのではないか、という認識が広く存在するように思う。


「公同」とは、「普遍的(カトリック)」ということだ。この意味を、ある神学者は「どこにおいても同質のもの」と表現した。


つまり、A教会に行っても、B教会に行っても、同じキリストが説教され、同じ主が礼拝されているということにおいて、教会の基本的な教えはどこでも同じものであるという意味で同質的だということだ。


教会形成のやり方や教えの細部などについての多くの点について多様性があったとしても、基本的な教えの「質」においては同じであるということだ。


 そして、「同じキリストが礼拝されている」という教会の「同質性」を保つためには、「信仰理解」に原則的・基本的な一致が必要である。根本となる教えの理解が違うなら、教会の「同質性」は保つことができない。


私たちの教会が属する日本基督教団では、この「基本的な教えの最低限の一致点」を示すものとして、「日本基督教団信仰告白」を掲げている。


この信仰告白は「簡易信条」と言われるもので、「一致のための必要最低限の基本的教えを網羅したもの」だ。


他の教派では、非常に細かい点に至るまで規定したりもする(ウエストミンスター信仰規準など)。


教団は多くの教派が合同したため、細かい点については教会の自治性・主体性に委ねる余地を十分に残しながら、「最低限」のラインを示している。


「キリストが臨在してくださる」ことは、教会が基本的な教えを守り続けることを前提にしている。主イエスが「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と仰り、「異なる教え」に警戒を促されてから、教会は歴史的に「異端」と闘い続けてきた。


それは、「教会の公同性」を保つためには「基本的な教え」を鮮明にして保持する必要あり、これが教会の生命線を守るための決定的なことだったからだ。

 

 

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教会は神学的には、「一・聖・公・使徒的」なものである、と言われているが、今回は「一」ということに触れてみたい。


「教会は一つである」というのは、どういうことか。教会が「多数」であるのは周知の事実だ。


「カトリック」「東方正教会」「プロテスタント」の大きく三つに分かれており、プロテスタントの内部でも多数の「教派」も分かれており、さらに「各個教会」というレベルでも無数の教会が世界中に存在している。


そこでなされている礼拝の多様性については、驚くべきものがあり、礼拝しながら熱狂的にダンスするアフリカの教会・・・。


早天祈祷会・徹夜祈祷会をする韓国の教会、ロックバンドのライブのような礼拝を行うアメリカ等の単立教会、2時間以上たちっぱなしの礼拝をするロシア正教会・・・。


このような礼拝を思い起こすとき、日本の多くの教会の礼拝の間には、ほとんど共通性が見られないほどの多様さがある。


「キリストの教会は一つである」ということの意味は、以上のような人間的な視点で「見える」部分に焦点を当てるほど、ほとんど意味がわからないものだ。


しかし、「教会は一つ」というのは、その前提として「唯一の神、唯一の救い主キリスト」という真理がある。神が唯一であるということが、「教会が一つ」であることの根拠なのだ。


つまり、上のような多様な教会・礼拝・集っている人々にあっても、「唯一の神」を仰いでいるということにおいて、教会は一つであり、そこには究極的には分裂も対立もない。教会の一致の根拠は、ここにある。主イエスのみが教会の一体性の礎だ。


「教会が一つ」と言われているとき、その一致を生み出すのは唯一の神への信仰であり、同時に私たち一人ひとりが「唯一の神」を仰いでいるのか、別の方向を向いているのかが常に問われている。


教会の一致というのは、人間的なものではない。


人間的には私たちは、一人ひとりがまったく異なる存在であって、そこには一致はない。人間としての考え方において一致しようとしても、もはやそこにはなにも一つとなりうるような根拠は存在しないからだ。


教会としても人間としても、経験や思想、知識や生きてきた時代にいたるまで見つめるなら、共通点はほとんどないと言える。


ただ、唯一の救い主キリストを仰ぐ信仰においてのみ、私たちは一致することができる、そういう群れなのだ。人間としての違いを見つめるのではなく、むしろ唯一の救い主を仰ぎ、このお方のみ言葉に従うことだけが、教会の一致の根拠である。

 



教会とはなにか① 「信仰者の母」・「キリストのからだ」としての教会

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 「教会とは」という主題で、しばらく思いつくままに書いてみたい。


 初めに、「教会は信仰者の母である」ことを考えたい。


宗教改革者のカルヴァンは、「教会を母としない者は、神を父とすることができない」と言った。教会を「母」のイメージでとらえている。


ここで言うところの「母」とは、「信仰者を受け入れ、養う存在」ということだ。


私たちはこの世の旅路をたどるとき、トラブルや困難に見舞われる。外に遊びに行った子供が怪我をしたり、友達とケンカをして傷つくように、私たちもこの世を歩むとき、ダメージを避けることができない。


また、歩みは危険や疑い、不安に満ちており、心はいつも重荷を抱えている。


「あれはどうしようか。これはどうしようか」と考え、「解決できるのだろうか」という疑いと戦っている。


教会は、このような私たちがキリストの御名によって受け入れられ、食べ物や飲み物(御言葉と聖霊の恵み)によって養われ、父なる神の力と知恵によって養われる母体そのものなのだ。


内村鑑三が創始した「無教会」という運動があるが、そうした集会もまた実態においては「無教会の集会」という教会を形成しようとしていることを考えると、子供が母なしには育つことができないように、信仰者は教会を否定することはできないのだ。


というのも、「信仰は聞くことによって始まる」(ローマ10:17)と言われているように、福音を語ってくれる「他者」の存在がいないなら、信仰は存立不可能だからだ。教会という「他者との交わり」のなかにおいてこそ、「信仰が養われる」ことが起こる。


母なる教会のもとで、父なる神の恵みによって「受洗者」という新しい信仰者の赤ちゃんが生まれる。母なる教会のもとで受洗者は養われ、成長していく。


そして信仰者として成長することを通して、支えられるばかりでなく、教会を支える者へと次第に変えられていく。


 教会という「他者との交わり」が、信仰において本質的な役割を担っていることを覚えたい。


 

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 教会は「キリストのからだ」と言われている。このことの意味を考えてみたい。


まず、「キリストのからだ」というとき、イエスご自身は「頭」としてイメージされている。


「からだ」は「頭」の指示と命令に従って動く。「頭」が考え、計画し、決めたことを、「からだ」が実行する。


つまり、教会とはイエス・キリストというお方の御心と指示に従って、キリストのご計画を果たすものだ。


キリストはその御生涯において、神の国の宣教の使命を果たされた。「神の国」とは「神による統治」のことだ。


人間が神の慈愛による統治のもとに帰って来るために宣教されることを、主イエスは第一の使命とされた。


同じように、主イエスの大宣教命令(マタイ28:19、20)に従って、教会は世界中の人々が神の統治のなかに入ることができるように、神の国を広める使命を推進する。


別の言い方をすれば、この主イエスのご計画とご命令に参与することがないなら、教会はその本質を失ってしまうということだ。「伝道なくして教会なし」と言われる所以である。


第二に、教会がキリストのからだであるということは、主イエスご自身が教会を御自分のからだと同定しておられる、ということだ。


指先を尖ったもので刺しただけで、私たちの頭は鋭い痛みを感じとる。そして、それ以上傷つかないように、なんとかそこを守ろうとする。


同じように、教会の一人一人はキリストのからだの一部である以上、その一人ひとりが傷つくことは間接的にキリストが傷つくことであり、その一人ひとりを攻撃するなら、間接的にキリストを攻撃することになる。キリストは、ご自分のからだが傷つくとき、御腕をもって守ろうとされる。


私たちはキリストの一部とされているという意味で、キリストの主権的な守りが与えられているのだ。


第三に、からだというとき、それぞれの部分は違った機能を持っている。目、耳、足、手、口など、それぞれ担う機能が異なる。


同じように、キリストのからだとしての教会のメンバーも、担う機能が異なっている。それぞれ違う働きをしているが、すべてが頭であるキリストのために補い合いながら、主の計画を成就することを一大目的として参与している。


説教の賜物、問安の賜物、事務の賜物、会計の賜物、教育の賜物・・・をささげながら、私たちは与えられている賜物を通してキリストの計画の実現に参与しているのだ。


 教会がキリストのからだであるということに、大枠においてこうした意味があることを心に刻み、共に教会形成に励みたい。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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