教会とはなにか③ 「聖」・「使徒的」である教会

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今回は教会が「聖」である、ということについて記してみる。

「聖なる」というのは、「道徳的に清い」というよりも、「神のために選ばれ、この世とは区別されている」という意味だ。


「教会は聖である」というとき、それは「この世とは異なる、神の所属とされているものである」ということになる。


現実の教会は、実際的には「聖」とはお世辞にも言えない面が多々ある。牧師や教会員一人ひとりが、どれほどこの世と区別された、神によって教えられた価値観・世界観で毎日を生きているかと考えてみると、非常に心もとない思いになる。


実際には、私たちは教会にきて「自分は神を信じている」と思ってはいても、「本音」の部分ではそれほど信仰を身に着けてはいない、というのが実態であろう。


私たちは説教を聴くときも、祈るときも、また教会で会議に出るときも、神の教えよりも自分がこの世で学んだ知識や経験を土台としていることの方が、ずっと多いのではないか。


「本音」の部分を神のまなざしに照らされて、なお「自分は神の教えに基づいて日々生きています」と言えるだろうか。


それにもかかわらず、「教会は聖である」と使徒信条においても、私たちが告白できる根拠はなんなのか。


それは、「神ご自身が、聖なるお方だから」である、ということだ。


教会は神の「聖」を太陽の光を反射する月のように、反映しているにすぎず、「聖」の本源は神ご自身である。


だから、教会としては現実的に聖なる性格を備えているように見えなくても、そういった教会に「聖なる神がなお臨んでおられ、なお働いておられる」という神の恵みによって、「教会もまた、そのような神が臨んでくださる群れとして、聖なるものである」と告白することができる。


このような「聖なる神」がご臨在くださる教会であるから、この神との交わりにあずかることで、教会は「聖なる性格」を礼拝ごとに更新して頂いているのだ。


聖なる恵みが与えられた教会は、「それならもう安心だから、ゆっくりしよう」と考えることはできない。もし、そう考えるとするなら、そこで受けている恵みは「聖なる」ものではない。


というのも、「聖なる」とは「この世とは異なる、特別な」という意味であり、この世ならざる新しい世界を常に目指しているものだからだ。


「聖なる恵み」を受けたのなら、「この世とは異なる価値観と生き方を体現し、キリストを証しする」歩みをたずね求めていくしかない。


ここに、キリスト者のたゆみない努力と向上の道が築かれる。「聖なる恵み」を受けることは、「聖なる歩み」をする責任をも、同時に否応なしに引き受けていることなのだ。


そして、もしその責任を果たさないなら、「聖なる恵み」もまた失われてしまうだろう。私たちは神の国の未来へと向かう旅人として、聖なる国を目指してなお進んでいるのだ。

 

 

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今回は「使徒的」という教会の特質について触れてみたい。


教会は「使徒的」である、という性格を元来持っている。この意味は、「使徒の伝統を継承している」ことに他ならない。


つまり、「使徒の精神をもって聖書を解釈し、生きる」ということであり、「使徒の伝統に連なるものとして、教会形成に従事する」ということだ。


それでは、「使徒の精神や伝統」とは一体なんなのか。


これは新約聖書の「書簡」を第一の源泉として、「使徒信条などの基本信条」、「古代教父」、「中世の福音的神学者たち」、「宗教改革者」、「近代の教会の伝統の継承者たち」、「現代の教師たち」などまで、使徒的精神は「教派」のなかに伝統として連綿として継承されてきている、それを「受け継ぐ」ということにほかならない。


聖書というのは、「ブラックボックス」だ、と言われる。


つまり、「主観的にいくらでも勝手に解釈できてしまう」ところがあるのだ。


「聖書解釈」をどのように適正な、力強いものにするのか、というのはキリスト者と教会の死活問題だ。


「どうすれば、聖書を正しく解釈し、救われることができるか」という問いは、私たちの最も大きな問いでもある。


プロテスタント教会では、その問いへの答えとして「使徒から継承されてきた伝統」を挙げる。聖書より二次的な意味合いにおいてだが、こういった「伝統」に基づいて聖書解釈の正しさは「検証」されなくてはならない。


そうでないと、各自が自分勝手に聖書を解釈してしまい、教会としての「一致」などはどこにおいても得られなくなってしまう。


一方、こういった「使徒的精神」を継承するといっても、個人的力量では限界がある。


信徒の立場では、いくら大部の神学書に取り組んだとしても、その知識には偏りが生じざるをえない。


そこで神学校で専門的に神学を修め、「使徒的精神」についての学びをし続ける役割を果たす教師、「教職制度」が必要になる。要するに、「牧師」たちの存在だ。


牧師の職務では「使徒的精神」をより深く広く過去の先人たちから継承している、ということが絶対的に重要な課題になる。


こうした伝統を身に着けることで、聖書解釈のより精度の高い「基準」を自分の内側に抱き、教会全体を正しい進路に向けて導くことが可能となる。


牧師は専門的に神学や他分野をも学ぶことによって、「使徒的精神」を現代に向けて解き明かし、現代の人々が受け入れることができるような形に展開していく責任をも担っている。


牧師の存在意義は、こうした「使徒的精神」を可能な限り深く広く身に着けることで、聖書解釈の基準を保ちながら、教会をまっすぐに導くことにある。


教会員もまた牧師からこうした使徒的精神に学ぶことで、自らのうちに聖書解釈の基準を培うことが、教会の成長にとっても極めて重要な課題となる。

 

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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