教会とはなにか④ 「神殿」・「主のぶどうの枝」としての教会

 教会のイラスト | かわいいフリー素材が無料のイラストレイン


「教会は神の神殿である」ことを記してみたい。


エフェソの信徒への手紙に、教会が「神殿」であるという比喩が語られており、パウロもコリントの信徒への手紙で「あなたがたは神の神殿」である、と語っている。


そのことの意味は、「教会には神が宿っている」ということであり、「教会そのものが神の臨在を証ししている」ということだ。


つまり、私たち教会は「神が実在しており、働いておられる」ということを、存在を持って公に社会に証ししているものであり、私たちの存在自体がこの世に対して、


「あなたがたは、神はいないと思っているかもしれないが、私たちは自らの人生をもって神が生きておられることを告げるのだ」というメッセージを伝えていることになる。


私たちは無言のうちにもこういったメッセージをこの世に発散しており、


だからこそ世の人々に「煙たがられる」ことをも味わうよう定められている。


この世にとっては、「神を信じていないあなたがたの生き方は間違っている」というメッセージを、私たちの「存在」によっていつも暗示されため、教会の存在を無意識的にも不愉快に思うからだ。


このように、私たちは世の中に無言のメッセージを伝える神の神殿として、神の実在を告げていくために、「互いに組み合わされ、支え合う」ことなくしては歩むことは不可能である。


厳しい嵐が吹きすさぶ世界にあって、教会という神殿は「互いに組み合わされる」ことが、建っていくために絶対的に必要なことだ。


石材や土台や柱といったものが互いに緻密に組み合わされ、互いに支え合ってこそ、神殿は神殿としての存在を保つことができる。


互いに「隙間」や「ひび」があまりにあるなら、瓦解してしまう。同じように、私たちもまた自分自身教会に支えられながら、教会を支えることによってしか、神の民の一員として神の御前に立つことはできない存在だ。


各自が「神殿の一部」であるということは、「支え、支えられる」ことからは逃れられないことを意味している。


教会は「イエス・キリスト」という「隅の親石」を土台として、「使徒と預言者」の伝統を柱として建てられているが、これらの土台と柱を「素材」である私たちが重んじて身を託さないなら、根本から脆弱な建物にならざるをえない。


また、「自分が教会を支えなくても、だれかが支えるだろう」という「お客さん」のような態度であるなら、教会の本質に背くため建つことなどできない。


私たちは否応なしに神の神殿の一部とされた存在であって、そういった固有の在り方から逃れることはできないのだ。


キリストの恵みを宿し、互いに組み合わされて支え合うことなしには、歴史的に存立しえないものであることを心に銘記したい。

 

 

 ・・・・・・・・・・・・


 

「教会はぶどうの枝である」ことを記してみる。


主イエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)と言われているが、これはまず「教会はイエス・キリストというお方から養分を頂くことによって、初めて生きて成長することができる存在である」ということだ。


私たちはキリストにつながっている限りにおいて、このお方から栄養をいただいて、「枝」として「実」を結ぶことができる。「枝」は実を結んだからといって、誇ることはできない。


その実の内実となっている栄養はすべて、キリストという木の本体から受けているに過ぎないからだ。


「枝」によって大切なのは、とにもかくにも本体の木に「つながって、栄養を受ける」こと、そして自らの分に即して「実を結ぶ」ことだ。


一方、「わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる(ヨハネ15、1、2節)」と言われている。この「実」とはなんだろうか。これは「イエス・キリストの聖なるご性格を反映している言葉や生活」のことと言える。


ヨハネ15:3では、主イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と唐突に「わたしの言葉」について言及されているが、これは結ぶ「実」と無関係ではない。


私たちは「キリストの聖なる言葉」という「栄養」を受けることで、私自身も自分なりの「聖なる言葉と、それに基づく生活」を形成していくようになる。そのことが暗示されていると言えるだろう。


「キリストにつながっていながら、実を結ばない」ということは、ありえるのだろうか。これは現実的には教会で起こっている。


キリストの言葉を「聴きはするが、自分の人生と生活に取り入れて実践はしない」という誤った在り方をしていると、このように実態と実質のない偽物信者になってしまう。


キリストにつながるとは、私たちの「全身全霊」でつながるということであり、それは「キリストの言葉を聴くだけでなく、実践して自分の人生すべてにおいてキリストと一体化していく」歩みをすることにほかならない。


キリストは私たちのために文字通りの「心血」を注いでくださっている。


私たちがそれに応答して、このお方に「心血」を注がないなら、農夫である父なる神によって、「取り除かれる」危険が常にある、という「神の厳しさ」のことをも魂に刻みたい。

 

 



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧