パウル・ティリッヒの神学に、かなりお世話になった時期があった。
自分のなかで、ファンダメンタルな信仰と葛藤し、戦っていたときがある。
聖書を原理的に無謬の「神」の位置にまで高めていこうとする信仰について、考えていた。
そのとき、ティリッヒは鮮やかな解答を示してくれたのだ。
聖書は、象徴言語であり、それ自体が直接の「神の啓示」なのではなく、「神の啓示」である神の御心を象徴的に表現しているものなのだ、というのだ。
これを読んだとき、自分のなかでファンダメンタルな信仰との葛藤が溶けて行くように思った。
聖書は、神を象徴的な言語形式で表現しているのであって、神ご自身ではない。
神を指し示しているのが聖書なのだ。ここでは、神と聖書がはっきりと区別されている。
もちろん、聖書を通してでなければ神の御心に触れることはできないが、しかし聖書を神ご自身にしてしまうのは、微妙な形の偶像崇拝だ。
こうした聖書理解にも、おそらく限界はあろう。
このようなあまりに「穏健過ぎる」理解によっては、「聖書を読むことに熱心な教会」は形成できない、という牧師の先生方からの批判も出てくると思う。
しかし、ティリッヒの理解は、「あまりに保守的・原理的過ぎる信仰に抑圧されて苦しめられている人」には、大きな助けを提供してくれる。
もちろん、こうした聖書理解で完全だ、ということはない。
これからも神学は深められていくなかで、こうした理解もまた塗り替えられていくだろう。
しかし、ティリッヒの神学がさまざまな形で、人の心を抑圧から解放するような、神学的な癒しを提供しているのは確かだと思う。
神学的な癒しを求めている方は、ぜひ彼の著書を読むようにお勧めする。
『存在への勇気』という著書が特に有名だが、彼自身が内面の分裂と苦しみを経験しながら記しているだけに、魂に迫る力がある。おすすめ。