ティリッヒ神学の特徴は、「調停」というところにあると思う。これは彼自身が自伝のなかで語っているところでもある。
カール・バルトと比較すると、バルトは聖書・教会・教義学など、キリスト教の独自の領域を「キリスト論的集中」をもって、徹底的に深めていくタイプだった。
『教会教義学』という彼の主著の題名が示しているように、バルトは「教会」というフィールドをとことん掘り続けた人だった。
それに対して、ティリッヒは、「教会の外」と「教会の内」をいかにして「調停」するのか、「教会の内の真理」を、「教会の外の真理」に対して、どう弁証していくのか、という課題を担って生涯戦った。
ティリッヒの思考法は、「教会の外」の哲学・芸術・心理学などと、「教会の内」の神学をどこまでも対論させ、その「境界線からどういう風景が見えるのか」ということを著書に書き続けた。
バルトとティリッヒは、お互い批判し合っているわけだが、それは互いの見ている風景の違い、立ち位置の違いに起因するところが大きいだろう。
もちろん、バルトは改革派でティリッヒはルター派という違いも浮き彫りにはなっているが、しかし神学的な方法論上の相違の方が要素としては大きい。
ティリッヒは哲学をことのほか愛していた。
哲学と神学の矛盾というものは致命的なものではないと考えていた。
ティリッヒにとって哲学は問題提起を豊かに供給してくれるものであり、神学は解答の源泉だった。
この世のさまざまな諸思想とどう向き合えばいいのか、ということを悩んでいるキリスト者に、ティリッヒは非常にスマートかつクリアな道筋を示してくれる。
彼の神学に親しむことで、いたずらにこの世の思想に対して、無意味な不信感を抱いたりしなくてもよくなるだろう。
ティリッヒは、この世の思想の部分的な真理性を見抜いて、それを神学に生かすことにかけては、天才的な能力を持っていたと言える。
そして、この世の考え方との関わり方がわからずに悩んでいる人に、ティリッヒ神学は枯れることのない癒しを提供してくれていることも、付言しておきたい。
彼の神学は、「癒し」に満ちている。ルターの言葉が心の傷を癒すような力を、彼の神学も秘めている。
教会で、また社会で働きを担うなかで傷ついている方には、ぜひティリッヒ神学に親しんでいただきたい。
特に、知的な面での疑いや不安と闘っている人に、彼は癒しに満ちた福音を説く力がある。そういう意味で、良きルター神学の継承者と言えるだろう。