ティリッヒの神学で、最も感銘を受け、考えらせられたのは、信仰を「究極的関心」として示した、ということだ。
私達はだれでも、「これについて最も関心がある。これが人生の中心的な関心事だ」というものを持っている。
ある人にとっては、それが「家族」かもしれない。
ある人にとっては、「自分のビジネス」かもしれない。
ある人にとっては、「学問」かもしれない。
マルクス主義者にとっては、共産主義社会の実現かもしれない。
投機家にとっては、株価指数の動向かもしれない。
だれでも、自分の心のなかに「究極的関心」を抱いている。それが信仰なのだ、とティリッヒは言うのだ。
つまり、「未信者」はいない、ということだ。だれもが、なんらかの「信仰」を持っている。
ただ、その「信仰の対象」が、「本当に自分の人生に救いを与えてくれるものか、どうか」は、決定的に問われてくる事柄だ。
キリスト教信仰は、その対象に「三位一体の神」を見つめている。この神に救いを見出した人々がキリスト者だ。
つまり、「だれもがティリッヒの意味における信仰者だが、その信仰の対象によって違いが出る」ということになる。
その対象に本当の救いはあるものか、どうか。もしそこに救いがないとするなら、その信仰の対象は「偶像」であり、偽の神なのだ。
すなわち、「無神論者」はいないのであって、だれもがなんらかの「究極的関心」を持っており、それが向かっている存在を「神」としているだけだ。
このことをティリッヒに示されて、私はなにか心が広げられたように感じると共に、改めてキリスト教信仰の特殊性を思った。
だれもが信仰を抱いている、という意味においては同じだが、しかしその対象が違うだけで人生が決定的に変わってしまう。
あなたはなにを信仰の対象としているのか。なにに忠誠を尽くしていくのか。
これが人生最大の根本問題だろう。