パウル・ティリッヒ 「相関の方法」とティリッヒ神学の弱点

 Mind Charging vol.89 『パウル・ティリッヒの名言』 | 正智深谷NEWS ...


パウル・ティリッヒの神学には一時期お世話になったが、この神学にはかなり明白な弱点があると思う。

 

それは、彼の神学が基づいている「相関の方法」に関わる弱点だ。

 

「相関の方法」とは、彼の神学の方法論だ。この世の美術や文学、哲学などの文化的な営みにあらわされている「人間の問い」に対して、聖書は答えを与えるものである。


だから文化に根付いている「人間の問い」と、聖書に記されている「神の答え」が互いに相関し、リンクさせることで、人間の救いが開かれると考える。

 

彼の説教を読んでみると、このことがよくあらわれている。


彼は、この世の文化のうちに内在している「人間の実存的な問いかけ」を分析しつつ、それに聖書の示している啓示がどう切り込むのかを、描き取ろうとするのだ。

 

この方法論には長所もたくさんあるし、こうしたやり方で救いに導かれる人もいることを、わたしは疑わない。このやり方には意味があると思うし、この方法論を完全に否定してしまうのも間違いだと感じる。

 

しかし、この方法論には、やはり弱点があると言わざるをないと思う。

 

それは、文化のうちにある「人間の問い」と、聖書の「神の答え」を相関させるというのは、「問い」と「答え」という言葉が示しているように、神の働きが「知性的次元」での営みに還元されてしまう、という危険性がある。

 

ティリッヒは最高度に知的な人間だ。彼の書物も洗練された文体と輝かしいアカデミックな用語に満ちている。彼の説教にはかぐわしいばかりの知的な香りがただよっている。

 

それが、同時に弱点になりうるのだ。

 

神の働きは、もちろん説教を聞くことによって受けとめるのだから、知性的なものも含まれている。しかし、それだけに還元できるものではない。


キリスト者の信仰生活は、身体も人格も、存在が総体的に関わるものだ。知性はそのなかの一部だ。

 

ティリッヒの神学は、その知性的な部分を過度に強調する向きがある。それにゆえ、仮に彼の神学に基づいた説教を聞いて信仰生活していると、おそらく信仰が観念化してくる危険性があるように感じる。

 

つまり、信仰が「頭のなかの問いと答えの欲求に満足を与えるもの」であることになってしまい、それが人生の現場で格闘する信仰者の血肉にまで響くものなりにくいのではないか、という疑問があるのだ。

 

具体的に言うなら、彼の神学に基づいて教会形成すると、そうした知性的な部分の欲求が非常に強い、一部の人にしかアピールしない教会になるのではないか、と思える。


そうした教会は少数精鋭で高度な議論を戦わせることには長けているかもしれないが、実際に労苦して教会の歴史を形成する重荷を担うことができるかどうか、それが疑問だ。

 

神の言葉は、人間の知性ばかりか、身体的、霊的、社会的な部分にまで切り込んで行くものだ。ティリッヒの神学には、知性を重んじるあまり他の部分をかなりの程度軽んじて行くような性質があるのではないか。

 

もちろん、彼の神学もある一つの信仰的断面を示してくれたという意味で、大変学びになるものだ。どんどん学ぶべき真理が彼の神学にはあふれていると思う。

 

しかし、そこにはそれなりの限界があることも、わきまえておく必要があると感じる。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧