パウル・ティリヒ自身が書いた著作には、神学的な「癒し」や「自由」が豊かにあるので、読むと心が支えられ、励まされるものだ。
「癒し」と「自由」を著作のなかで書き続けたティリヒだが、彼自身の私生活には、いささか異常なものがあったという。
彼はお酒が好きだった。
というより、「好き」というレベルをこえて、ほとんど中毒的なものがあったようだ。
彼は務めていた大学から相当な高給をもらっていたようだが、家計はいつも厳しい状態だった。
その大きな理由のひっとうは、彼がもらうお金を、飲み歩くために使ってしまうからだった。
台所に座って高級なワインを友人と語りながらひたすら飲み続け、深夜や朝方に千鳥足になってふらふら帰るのが日常だったという。
また、彼は女性に対して異常な執着と偏愛を抱いており、およそ神に仕えているはずの「牧師」のイメージとはかけ離れた趣味や異性関係を持っていた。
彼は妻がおりながら、大学の秘書と長年にわたって男女の関係にあったようだし、サド・マゾ的な趣味を満たすための店にも通っていた。
また、ポルノ小説の収集とその朗読会という、およそ彼の著作からは考えにくいような習慣も、若いころからずっと続けていた。
このような、ティリヒの「ダークサイド」と、彼の著作にあらわれている「ライトサイド」は、おそらく表裏一体の関係にある。
彼は著作と大学での講義のなかで「癒し」と「光」を提供しようと集中したが、その反面自らの内面に「混乱」と「暗闇」を背負い込み、これを解消し続けなくてはならない、という強烈な矛盾の状況に置かれた。
彼のこうした状況をどう理解し、解釈するかということは、ある意味キリスト教につきつけられた非常に大きな現代的な課題だと言わざるをえない。
つまり、「神」という「光」の徹底的な強調が、人間の内面に「暗闇」を抑圧し、圧迫し、混乱をもたらす側面があるのではないか、ということだ。
この課題は奥が深すぎて、自分自身、どう解決したらいいのか、なお道が見えない。
事実、キリスト教をなんらかの形で否定していったフロイトやユング、アドラーといった心理学者の理論も、世界の「世俗化」「脱宗教化」も、キリスト教の「抑圧性」ということと深い関係があるのだ。
「恵み」「正義」「光」「癒し」「自由」をもたらす「神」への信仰が、同時に人間の無意識の底にそれと反対の「ダーク」を抑圧的にもたらす側面があるのは、「すべて」のキリスト者にとってはそうではないにしても、少なくとも一部のキリスト者にとっては真実だろう。
ティリヒの「裏の顔」と「二重性」の課題は、このことを鋭く問いかけている。「抑圧的キリスト教」をどう乗り越えていくのか、という課題だ。