ボンヘッファー神学の弱点は、いくつか考えられる。
その一つが、「貴族主義」だ。彼の神学は、おおむね「強い人間の神学」になっていると思う。
彼の『現代キリスト教倫理』を読んでみても、そのことがうかがえる。
ボンヘッファーは、責任と罪を引き受けて、苦悩しながら行動することができる、力強いキリスト者像を描き出している。
もちろん、これが「間違い」であると言いたいわけではない。
こうした、「強い者の神学」も必要だと思うし、これによって養われる人も多いことだろう。
しかし、逆に「ついていけない」人の数も非常に多いと思う。
彼の神学は、「キリスト教的貴族」のための神学のような響きをもっている。
自分の弱さや欠点、自分の恥ずかしい部分に悩みながら生きている、「弱い」タイプのキリスト者にとっては、彼の神学は「自分の罪や弱さが裁かれている」という感覚をどうしても抱かざるをえない。
「もし神がこのようなお方であるなら、自分はとてもついていけない」という「気おくれ」を感じてしまうのだ。
私自身、彼の灼熱のような情熱に魅力を感じながらも、そしてそのキリスト者としての水準の高さに感嘆しながらも、「でも、自分にはこれは実践できないな」という思いがわいてくることをとめられなかった。
彼の要求水準の高さに、適合できない自分を見出してしまうのだ。
もう少し踏み込むなら、ここから彼の神学の「律法的響き」についても批判がなされうると思う。
彼は「服従」や「犠牲」や「責任」を強調するあまり、神の「恵み」や「慈しみ」や「赦し」を過小評価する結果になっているのではないか、と言われるのではないかと思う。
キリスト者に非常に高い信仰的水準を要求し、彼自身はそれを生きることができたかもしれないが、しかしそれについていくことができない大勢のキリスト者を、神学的に裁いてしまっているところがあるようにも思う。
ボンヘッファー自身が、「キリスト教的貴族」という言葉にぴったりするような人だ。
崇高な意識と、倫理観を持っている。
しかし、私のようなキリスト教的庶民には、やはり彼の神学は自分に「受肉」しないところが大きいように感じてしまう。
彼の「貴族主義」から学ぶところも大きいが、しかし同時にそこが弱点にもなりうると思う。