ディートリヒ・ボンヘッファー 「安価な恵み」と「高価な恵み」

 神の前で、神と共に、神なしで生きる」 ボンヘッファー | 真理の研究

神学生時代の最後のとき、修士論文を書いているときだった。


私はどうしたことか、ボンヘッファーの『行為と存在』という著書を手に取ってしまった。


一冊読むと、取りつかれたようになった。激しい面白さを覚えた。

 

ボンヘッファーの灼熱のような情熱にすっかりやられてしまい、修論を書かなくてはならないのに、およそ関係のない彼の著作を次々に読むはめになってしまった。


そのくらい、彼の著作にはたまらない魅力があったのだ。

 

現代のキリスト教会の力が衰退していることの理由を、彼は明白にえぐり出しているようにも思えたし、同時に彼の提示するキリスト者の水準の高さにめまいがするような思いもした。

 

特に、心に残っているのは、「安価な恵みと高価な恵み」という主題だ。

 

ボンヘッファーは、現代の教会の説教が「安価な恵みの説教」に堕落していることを、痛烈に批判している。

 

「安価な恵み」とは、服従や犠牲、キリストに従う痛みを伴わない、安っぽい神の愛の説教のことだ。


ボンヘッファーは、こうした説教が「罪人の義認」ではなく、「罪の義認」をもたらしている、という。

 

罪を犯している人に対して、「罪を捨てよ。悔い改めよ」と語るのではなく、「罪を犯していても、神が愛しているのだから大丈夫。罪を犯したままでいいのですよ。罪を捨てることも、悔い改めることも必要ではありません」と暗示するような説教のことだ。

 

こうした、罪を放置し、キリストに従うために十字架を背負うことを求めないような、安っぽい表面的なキリスト教が、教会の現実を完全に堕落させていることを、えぐりだしているのだ。

 

逆に、「高価な恵み」とは、自分を否定し犠牲にしても惜しくないほどの、キリストの驚くべき恵みのことだ。


このような絶大な神の愛の深みを知るには、そこに「服従」がなくてはならない、とボンへファーは熱烈に語る。

 

自分をどれほど軽んじても、なお釣り合わないほどのものが、キリストの恵みであって、これが本来のものなのだ。


こうした恵みは「高価」であって、そこに痛みや犠牲が伴う。


しかし、そのすべてを覆ってあまりあるほどの尊い喜びもまたそこにある。


こうした喜びは、キリストのために「痛む」ということなくしては、味わうことができない種類のものだ。

 

現代のキリスト教会において、「服従」を説教者が語るときに、それを「律法主義」として安易に批判する傾向があることに対して、ボンヘッファーは鋭く切り込んでいると思う。


「そうした態度は、むしろ安価な恵みの説教を擁護していることになるのではないか」と彼は迫るのだ。

 

彼の問題提起はあまりに激しく、なかなかついていけない面がある。


実際、自分のような凡人には彼の信仰や倫理の水準の高さは、到底守ることができない、と感じる。

 

しかし、彼の著作は教会の根本的な罪とその救いをあらわに示してくれている面で、永遠の輝きを失わない神学的業績となっていると言える。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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