ボンヘッファーが『獄中書簡』のなかで語った刺激的な概念のなかで、「非宗教的解釈」というものがある。
この概念の内容について、ボンヘッファー自身が展開する前に、彼は世を去らなくてはならなかった。
だから、この概念の神学的内容については、彼の語ったことを手掛かりに、ある程度再構成する以外にない。
ここに書くのは、あくまで私見だ。
私なりに、ボンヘッファーが「非宗教的解釈」ということでどういうことを考えていたのか、想像してみる。
まずボンヘッファーは、「宗教的解釈」ということを語り、これを批判している。
宗教的解釈とは、「形而上学的」・「個人的」・「内面的」解釈のことだという。
つまり、個人が自分の経験の限界や苦しみのところで、自分では納得できない痛みを納得するために、「作業仮説としての神」においてその経験を解釈する、そうした解釈のことだ。
要するに、痛みの緩和剤的解釈、精神安定剤的解釈と言える。
その経験の意味がわからない、ある出来事についての「意味」を、「神」において説明可能なものにする、そういう解釈だ。
ボンヘッファーは、こうした解釈をしていくと、神ご自身は人間経験の限界においてあらわれることになり、文明が発達するほど、神は後退劇を繰り返さなくてはならなくなる。
つまり、ここでいうところの「神」とは、人間の苦しみあっての神であるような存在になってしまうのだ。
こうした「神」は、もはや神ではなく、説明原理であり、作業仮説としての「神」に過ぎない。世界が成人となった今、こうした神理解は成り立たない。
そこで、「非宗教的解釈」だ。
この解釈は、さきほどの類型をひっくり返すなら、「この世的」・「共同体的」・「形而下的」・「外面的」解釈と言える。
ボンヘッファーの言葉を手掛かりに考えると、これはある意味「旧約聖書的解釈」と言える。
「宗教的解釈」が新約的であるとすると、こちらは類型として旧約的だ。
ボンヘッファーは、この概念によって旧約聖書的カテゴリーから遊離して、あまりに安易に新約的になり過ぎるような、地に足のついていない信仰の在り方を、批判しているのだと理解することができる。
旧約を前提としない新約的信仰は、歴史形成的な力を担うことができない、弱さを正当化する宗教運動になってしまう。
ボンヘッファーは「非宗教的解釈」ということによって、結局のところ「聖書的解釈」へと私たちを導きたいのだ。
そこへ導くためには、「旧約聖書的」な解釈類型を取り戻さなくてはならない。旧約的な信仰の在り方のうえに、新約の理解を更新する必要がある。
そのために、こうした概念を創造したのであると思う。
「非宗教的解釈」を誤解して受け取り、この世の課題とその解決を説教で中心的に語るようなやり方を正当化するのは、ボンヘッファーの誤読だと思う。
ボンヘッファーは、あくまで聖書に忠実な解釈を求めたのであって、聖書から離れてこの世のイデオロギーや思想に溶解してしまうような解釈を提案したのではありえない。
旧約聖書的な真理契機、解釈的カテゴリーの土台のうえに、新約聖書理解を打ち立てること。
これが彼の意図であると思う。ぜひ、『獄中書簡』にじっくり向き合ってみていただきたい。