ディートリヒ・ボンヘッファー 「成人した世界」

 神の前で、神と共に、神なしで生きる」 ボンヘッファー | 真理の研究


ボンヘッファーが語ったことのなかでも、最も議論になるのは、「成人した世界」という概念だろう。

 

以前は、「神という後見人」のもとで、人々は暮らしていた。


自分の解決できない問題については、すべて神にお願いし、忍耐していた。神こそがすべての問題の解決者だった。

 

しかし啓蒙主義以来、世界は「自分で自分の問題を解決する」ということ、「自律」することで「自立」した世界になろうと、発展を続けてきた。

 

さまざまな分野が神の世界から独立し、「神という後見人」によってではなく、人間の力と知識によって人間の問題を解決するように、技術や科学を発展させた。

 

その結果、ボンヘッファーによると、世界は「成人」となった。


つまり、「神という後見人」からの「自律・自立」を達成した。人間は、ほとんどの問題について、自分たちで解決可能になった。

 

すると、もう世界のなかから信仰の場所というものがなくなってしまう。


神なしに自律し、自立した歩みが可能になるなら、人間はもはや神を「必要」とはしないのだ。

 

ボンヘッファーは、こうした「成人した世界」にあって、教会はなにを信じ、どう歩めばいいのか、『獄中書簡』という著書のなかで考察している。

 

 

 

ボンヘッファーは、教会はもはや人間の「苦しみ」や「痛み」といったものに訴えて伝道すべきではない、と語る。


成人した世界においては、そうしたものは自分で解決できるものである以上、「神」を持ち出して解決する必要はない。

 

「困ったときの神頼み」の「神」を、ボンヘッファーは「機械仕掛けの神」として批判する。こうした神は、本来の神ではない、と告発するのだ。

 

ボンヘッファーは、神とは「苦しみの解決者」ではなく、むしろ人間が「他者のための存在」として在ることを可能にするようなお方である、という。

 

神は限界や痛みにおいて人間にあらわれるのではなく、生活の真っただ中で、人間が他者のために献身することを可能にする、そのような存在なのだ。

 

ボンヘッファーの『獄中書簡』での問題提起は非常に多義的な解釈を許容するため、容易に誤解しうるものであると感じる。


また、この著作は、それまでの彼のすべての著作を前提にして読まないと、彼の意図を見失ってしまうように思う。

 

彼の『獄中書簡』の思想から、「教会はただ社会的活動や社会的実践をするためにある」という考えを引き出す解釈者もいる。


「世のための教会」という彼の言葉が、こうした理解を導いてしまうようだ。

 

しかし、私はそれはまったくの読み込みであると思う。彼の『獄中書簡』以前の全著作を無視すれば、そういう解釈も可能かもしれないが、彼の神学的歩みをたどるときに、この理解は不可能である。

 

ボンヘッファーは、ある意味でこの世界における神の居場所を、痛みや限界や苦しみといったところにではなく、生活の全領域を覆い尽くすものとして、神学することを提案したのだ。

 

痛みや苦しみの即時的解決をもたらす「機械仕掛けの神」ではなく、「他者のための存在」として生まれ変わらせることで人生を変革してくださる神。


それが聖書的な神なのではないか、と語ったのだ。



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