キリスト者と「裁判」

 



最近、キリスト者が「裁判」を起こす事例をいくつも耳にしており、心が苦しくて仕方ない。


私の母校も裁判を起こされており、毎日こういった哀しみや虚しさと戦わざるをえず、暗い心と魂の痛みが絶えずつきまとっている。


個人的レベルでも、現代のキリスト者が裁判を起こすことによって問題を解決するという頻度が、過去と比較して上昇していると感じるのは、わたしの主観的な見方に過ぎないのだろうか。


あらためてこの課題について取り上げて考えたいのだが、聖書に裁判について記されている部分があるが、ダイレクトに以下のように書かれている。


コリントの信徒への手紙一 6:1-9 新共同訳聖書より


「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。


あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。


世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。


わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。


まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。


それなのに、あなたがたは日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。


あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。


あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。


兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。


そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。


なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。


それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。


しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。


正しくない者が、神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない」


上の箇所で特に課題となっているのは、「信仰と生活」に関わる部分についてであろうと思われる。


そういった霊的領域においては、私たちの「唯一の規範」は聖書であるため、聖書の教えに従うことが求められる。


一方、この世の枠内で、この世の法の領域にある課題については、裁判によってしか解決ができない課題も存在する。


そういった課題については、キリスト者といえども裁判に訴えることはできる。


パウロ自身も、不正なむち打ちを受けそうになったとき、ローマ帝国の市民権を持ち出して、その不正を訴えている場面がある(使徒22:24~29)。


「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と主イエスがおっしゃっているように、この世の法的領域と、神と教会の霊的な法的領域を区別することが、前提として不可欠だ。


前者については裁判の適用もありだが、後者は神の裁きを待ち望みつつ、忍耐する信仰が求められている、と言えるだろう。


ところで、教会においてはどんな課題も多くの場合、「前者と後者の混交」と「重なり合い」であることが多い。


視座により、前者から見ることもできるし、後者から見ることもできる。


領域として、重なり合っているような事例だ。


混交の割りあいや重なり合いの理解についても、その線引きは解釈の問題となるため、困難がある。


区別について専門的解釈が必要となる微妙な問題が多い、ということになるだろう。


法の素人には区別できない問題に遭遇したら、弁護士など法律の専門家に相談するのは特に必要な事例があると思われるし、法的領域の原則に従って裁判で決着をつけることも必要なことがあるだろう。


一方、「神の裁きを待ち望む信仰」と、「信仰に基づく忍耐」については、聖書の教えの中枢にあるものだ。


このことに対する信頼と畏れの「希薄化」があるのではないか、という問いを、私自身はぬぐうことがどうしてもできない。


現代のような世界史上、最も世俗的な時代にあって、神の裁きと神の公正・正義に対する信頼と畏れが、リアリティを失ってしまっていると、私たちは感じているのではないか。


神の裁判、神の正義に訴えるよりも、目に見えるこの世の法廷に訴える方が、より問題解決のうえで有効かつ適切である、という認識をもちやすい時代精神が蔓延している。


神の正義をあいまい化し、リアリティがないものと思わせる時代精神は、「悪霊」と呼ぶにふさわしいものだが、この悪霊に私たちがやられてしまっていないか、自己吟味が求められている。


仮にパウロが言っているように「奪われるまま」になってしまったとしても、それが神の前で不正であるなら、神ご自身が多くのご自身の手段を通して「取り戻してくださる」という信仰を、私たちは受けとめ直す必要がある。


まずは「私自身の課題」としてとらえ、「神は正義と公正に満ちており、その裁きは正しい」という聖書の最も基本的な教えに立ち返ることが神からの招きなのではないか。


重大な問題に遭遇したとき、裁判を起こすにしろ、起こされるにしろ、取り下げるにしろ、そうでないにしろ、このような基礎となる信仰を「大前提」として堅固に抱いているならば、事態が神の恵みと力により改善していくのは明らかだろうと思われる。




2050年 日本基督教団の絶望と希望

 




日本基督教団では「2030年問題」について言われて久しい。


2030年前後、現住陪餐会員の平均年齢が平均寿命を超えるということで、日本基督教団の多くの教会が存続を問われる事態になっているだろう、という。


統計的にはそう言える、という話に過ぎないが、数字に基づいている以上、やはり蓋然性はそれなりにあると考えざるをえないだろう。


ここでは、一つの想像として、「2030年」のさらに先、「2050年」を考えてみよう。


この記事の著者は2022年現在43歳だが、2050年には71歳になっている。


要するに、現在40代の牧師たちの多くが隠退を考えるような時期、日本基督教団はどうなっているのか、思い描いてみる、ということだ。


(もちろん、それまでに主イエスの再臨があるなら、ここに記すことはすべて気にしなくてよいものとなるのだが・・・)


ごくシンプルに考えて、そこには絶望と希望がある、と自分には思われる。


絶望的な部分について触れると、現在存在している日本基督教団の多くの教会は、そのとき存在していない可能性が大きい。


牧師や信徒の人数も、そのときには過去と比較して、激しい悲しみと胸を焼かれるノスタルジー以外なにも抱くことができないようなものになっているだろう。


ヨーロッパで、過去の栄光を物語る歴史的な大聖堂が、いまやほとんど集う信徒もなく閑散としている姿、あれは2050年の日本の教会の姿とほぼ重なると考えていい。


日本でも、2050年前後には日本教会史に名前を残しているような大教会が、跡形もない状態になっている、という例がいくつも散見されるに違いない。


日本基督教団の将来に見えるのは、一面においては、こういった絶望的な、廃墟のようなビジョンだ。


どんなに包み隠そうとも、問題を真摯にとらえ、現在の流れをありのままに見つめている限り、こういった将来を回避することは困難だろう。


一方、希望を持つことができるビジョンもある。


現在の危機的な時代にあっても、なお日本基督教団には御言葉の説教や聖礼典、伝道や教会形成といったことについて、ひるむことなく揺らぐことなく、使命を果たし続けている教会があるのだ。


衰退の流れに押し流されることをよしとせず、これに激しく抵抗し、なおイエス・キリストの不変の恵みを信じ続けている牧師と信徒の群れだ。


そういった群れにおいて、またそういった群れを導く牧師においては、上に描かれたような絶望的状況は該当しない。


聖書の約束が実現していくからだ。


むしろ、そういった教会は「残りの者」として、神によって祝され、新しい教会の時を生み出す拠点となっていくだろう。


日本基督教団の多くの教会が廃墟のような状況になっていくときにも、イエス・キリストの信実を信じ続けた牧師と信徒は、新しい時代を拓く礎となる。


つまり、日本基督教団の牧師と信徒の数は減り続け、ついにはまったく無に等しいような状況にまでなるかもしれない。


それでも、なお「残りの者」(「バアルに膝をかがめなかった7千人」(列王記上19章)のような・・・)がそこに存在している限り、その人々が新たな時代を築く、教会の母体として用いられる。


その人々から信仰を受け継いだ世代は、私たちが見ることができなかった新しい世界を見ることができるかもしれない。


いま、私たちは神によって「ふるいにかけられている」のだ。


絶望的な将来への道を行くのか、希望の将来への道を歩むのか。


「バアルに膝をかがめる大半の人々」の一員になるのか、「残りの7千人」の一人となるのか・・・。


ふるいにかけられた先に、絶望と希望とに、私たちは分かたれているだろう。


これは「だれか」の問題ではなく、「わたし」と「あなた」の問題なのだ。



「牧師依存」の代償と「賽の河原問題」

 




牧師は「御言葉の説教と聖礼典の執行」を主たる職務とするが、教会で生じる課題の「すべて」について、責任を負っているとも言える。


教会の維持管理に関わることから、事務的なことに至るまで、牧師に責任のないものはないと言える。


一方、その牧師はいずれはその教会を去る人間であり、別の人間が導かれ、職務に着く。


牧師は「いつそこからいなくなるのか、わからない」者でありながら、「そこに責任を負っている」という、不思議な状況を抱えている。


牧師と教会の方向性が異なってしまえば、牧師はそこにいることはできない。


教会が牧師の説教や奉仕を軽んじ、それを受け入れないなら、牧師は早晩そこにいることはできなくなる。


牧師自身や家族に重大な病気や事故などがあれば、牧師はそこにいることができなくなることもある。


牧師は薄氷の上を歩くように、「いつ神によって取り除かれるか、わかららない」ものとして、職務を推進していく。


そして、牧師が辞任するときというのは、ほとんど常に教会員にとっては「青天の霹靂」として、つまり「まったく予想もしないような時や場所」で告げられたりする。


「まさかあのとき、牧師が辞任するなどとは思わなかった」と多くの人は口をそろえて言うのだが、実のところはその下地は数年以上前から準備されているのが普通だ。


上にあげたような、なんらかの理由が辞任せざるをえない水準にまで大きくなってくるとき、牧師は神の御心を問いつつ歩むが、いよいよ自分がそこにとどまることが御心とは思えない時がやってくる。


教会の職務は、牧師が担うことによって適切に進められることも多いが、当の牧師は「いついなくなるかわからない」、グレーな部分がある。


つまり、教会形成を「牧師依存」「牧師主体」で進めれば進めるほど、「牧師の辞任」によって教会が支払う「負の影響」の代償はより大きくなる、ということだ。


教会員が皆で協力して教会形成を担い、牧師は「御言葉の説教と聖礼典」に集中できている、という状況であれば幸いなことだ。


牧師が交代しても、説教や聖礼典の質が確保されていれば、教会としては確実に前進を続けることができる。


しかし、説教と聖礼典のほかの部分について、教会形成の多くのことを「牧師依存」で進めてしまうと、牧師の辞任によって教会が受ける打撃というのは想定をはるかに超えるものになる。


「あの牧師がいたからやれていた」という働きのすべてが、すぐに消え失せてしまうか、別の形に変更せざるをえない。


さらに、教会が「牧師依存」ができるような働きをする牧師は、そう簡単に与えられることもない。


こうして、先代が築いたものの多くが、次の世代でいとも簡単に打ち壊される、ということが起こる。


教会形成における「賽の河原問題」だ。


石を積んでも積んでも、やがて次の時がくると積んだものすべてが崩されてしまい、最初からやり直しになる。


歴史的に、何度も何度も、同じことがループし、教会の現実は大局的に変わることがないか、衰退を続けてしまう。


この問題をクリアしていくには、まずは教会が「牧師依存」の体質を脱却しなくてはならない。


同時に、ある牧師が辞任しても、後任者において少なくとも「説教と聖礼典」においては、しっかりとした質を保つ必要がある。


そのための牧師養成・神学教育が確立されなくては、「賽の河原問題」は無限ループとなり、教会の将来を閉ざし続けるだろう。


教会としては、いかに「牧師依存」の体質を脱ぎ捨て、それぞれの信徒が「自分の集う教会は自分が支えていく」という意識を育てることができるか、それが最も大きな課題となる。





オンライン礼拝と「隣人」の存在

礼拝堂での礼拝にはあっても、オンラインにはないものに、「身体をもって共に集う」ことがある。


オンラインは、ネットを通して礼拝の情報に触れることができるため、身体的に教会に足を運ぶ必要がなく、また他の人々と共に集いに加わる必要もない。


イエス・キリストは神でありながら身体をとり、人となられたお方であって、このキリストに倣う以上は、私たちもまた身体をもって神の前に出る、というのが最も基本的な信仰の基礎であることは確かだ。


キリストの受難にあずかるとは、キリスト者においては「日常のわずらわしさや忙しさ、あらゆる問題、自分のメリットのためにできるならばしたい活動に囲まれながらも、それらを脇へ置いて礼拝に出席する」ことにおいて、最も実践的に表現されているとも言える。


また「身体の復活」を信じている者として、信仰は「魂」の領域に関わるばかりか、全人的なものであり、身体をないがしろにするような信仰は、霊肉二元論の「グノーシス主義」の弊害に陥りやすいものだ。


そもそも、創造論からして、「なぜ神は天使とは異なり、人間を霊的な存在でありながらも身体をもつものとして創造してくださったのか」という根本を考えてみるとき、神と隣人との交わりにおいて、やはり身体が重要であり、これを神が喜ばれていることは認めることができるだろう。


神学的に各方面から、礼拝は「身体をもって出席する」ことに意味がある、という点については、言うことができるだろう。


一方、ではオンライン礼拝は、そのようなことができないので、「礼拝ではない」と結論づけることができるだろうか。


まず、個人的な日々の祈り(デボーション)について考えてみよう。このような個人的な聖書を読み、祈るひとときは、「礼拝」とは言えないのだろうか。


もしこれが礼拝と言えないなら、病床にあって礼拝に出席できない人々や、高齢のため教会に出席ができないという人々は、病院や自宅で祈っていようとも礼拝はしていない、ということになるが、そういうことがありうるだろうか。


状況をすべてご存じの神が、その人々に聖書を通して語りかけ、祈りを与え、祝してくださるという点で、個人のデボーションも「礼拝」であると言うことができるのではないか。


オンラインの場合は、ある教会の動画や音声にネットを通して「アクセスする」という手順が生じるが、同じようにすべてをご存じの神がオンラインを「お用いになる」という自由を、私たちは勝手に閉ざすことができるだろうか。


むしろ、神がオンラインという手段を通して礼拝する人々をご存じであるのに、その人々の礼拝をそれが「オンラインだから」という理由で受け入れてくださらない、と考える方が、神の愛と自由を人間が自分勝手に狭めるような、不信仰な態度ではないだろうか。


オンライン礼拝を礼拝として受け入れてくださるのは、神ご自身なのであって、私たちはその神の愛と自由を勝手に制限してはならないだろう。


事実、オンラインを通してみ言葉と聖霊の働きにより、魂が養われている、ということを現在多くの人々は経験している。


神はオンラインを通しても、お語りになることができ、救いの御業に私たちをあずからせることができるのだ。


それでは、礼拝に「共に集う」ことの意味とはなんだろうか。


オンライン礼拝の弱点の一つは、「神と自分」の関係が養われるためには有効な部分が大きいが、「隣人と自分」の関係のためには、むしろ有効ではない、というところがあると思われる。


礼拝堂での礼拝においては、常に「共に集う」隣人の存在があり、その人々と共にいることを意識せざるをえない。


そして、神の前にありながらも、隣人のために配慮や祈りがつねに必要となる。


教会形成に従事し、また互いのことを語り合い、祈り合っていくという点において、オンラインにはないような「横の次元」がそこには豊かに存在している。


「横の次元」が欠落した信仰生活は、やはり重要な点が見過ごしになりがちになる。


イエス・キリストは私たち罪人というキリストにとっての隣人のためにこの世にこられ、みずからの命を注がれたお方である以上、私たちも隣人を無視したままキリストに従っていくことはできない、ということだ。


「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(Ⅰヨハネ4:20)とあるように、「兄弟姉妹を愛する」ことと、「神を愛する」こととは、直結しているのだ。


十字架に縦木と横木が不可欠であるように、神への信仰には横の次元がつねに伴う。


オンライン礼拝は、ある意味においてその「横の次元」を見過ごしにしてしまったり、真摯に受けとめな信仰生活を生み出してしまいがちであるという弱点があることについては、私たちは自覚的でなくてはならないだろう。


オンライン礼拝が「隣人の存在」をとりなし祈り、隣人と出会うことから私たちを遠ざけてしまうのなら、それを誘惑としてとらえる視点をもつべきだろう。


ボンヘッファーが『共に生きる生活』で語っているように、「一人でいることができない者は交わりを用心しなさい。・・・交わりの中にいない者は一人でいることを用心しなさい」。


他方、オンラインというツールが与えられている恵みを、あまりに短絡的な考え方によって否定していれば、今後の教会にとって伝道・牧会のための道を見失うことになりうる。


問題点についてはしっかりと見極めつつ、メリットはしっかりと有効活用していく知恵が求められている。






「オンライン礼拝」は礼拝ではないのか?


 コロナ禍が進むにつれ、オンライン礼拝も一般化し、実施する教会も相当数にのぼるようになった。


一方、「オンライン礼拝は礼拝ではない」という立場を貫いている牧師・教会もいらっしゃる。


オンラインでの礼拝は、礼拝として成り立ちうるのか、そのことを考えてみたい。


まず、「礼拝とはなにか」であるが、これは「三位一体の神を拝む」ことであり、「神からの語りかけを受け、それに応えること」にほかならない。


礼拝を成り立たせるのは、「三位一体の神」ご自身と、この神に向かうキリスト者・教会の応答だ。


礼拝要素であらわすと、前者は聖書朗読、説教と聖礼典であり、後者は祈祷、讃美、奉仕、献金等による。


これらの手段を通して、神と教会の交わりが実現するのが礼拝と言える。


つまり、礼拝がキリスト教会の礼拝でなくなるとすることがあるとすると、それは「三位一体の神への礼拝ではなくなること」、また「キリスト者・教会による神への応答がなくなること」による。


オンラインという文脈で考えた場合、一体どうなるだろうか。


第一に、動画の画面を見ながらの礼拝において、その対象が三位一体の神ではなくなる、ということについては、オンラインだろうと、対面だろうと、いつでも起こり得ることだ。


私たちは神を仰いでいると言いながら、自分のことばかりを追求するような罪人である以上、本当に三位一体の神を仰いでいるかどうか、という点については、オンラインであるなしにかかわらず、常に危険と誘惑にさらされている。


三位一体の神ではなく、「自分自身の利益」や「自分を支える牧師」、「自分の将来の夢」、「自分の身体の癒し」ばかりを求め、本音の部分では神からまったく身を背けている、というのはありうることだろう。


第二に、神に応えるキリスト者・教会の側として、「神への応答がなくなる」ことについては、オンラインで起こり得る。


オンライン礼拝をしながら、讃美せず、祈祷せず、献金しない、というのは、大変よく起こっていることではないだろうか。


ただ、これについても対面でまったくこういったことが起こらないというわけではない。


礼拝堂に座っておりながら、心ここにあらずで、讃美にも祈祷にも心がまったくこもらないとするなら、それは神への応答がなくなっている、と言える。


結局のところ、オンラインであろうと対面であろうと、礼拝が礼拝ではなくなってしまうというのは起こり得る。


最も重要なのは、「オンライン」という手段の是非にあるというよりも、礼拝者の信仰的な姿勢によるのではないか、というのが自分の見解だ。


オンライン礼拝を、「礼拝」としてささげることもできれば、そうでなくしてしまうこともできる。


それは礼拝者自身にかかっている、ということだろう。


ただし、上の比較からオンライン礼拝の方がより容易に「神への応答がなくなる」危険に落ちやすい特質を持っている、と言えるのではないか。


家にいてできるという手軽な反面、讃美、祈祷、献金、奉仕といったすべてを「自分の選択で、だれにも気づかれずになしにすることができる」という点で、オンライン礼拝は「神への応答」において、よりイージーな方に走りやすい。


「チープな恵みに満足する」とD.ボンヘッファーが批判するような、神への献身がない信仰になってしまいやすい、という弱点がある。


他方において、病床にある方々、諸事情により長欠の方々もオンラインでは礼拝にあずかることができる、というのは非常に大きなメリットだ。


また、教会がどういうところか、まったく知らない地域の方々にも、伝道も含めてオンライン礼拝を公開できるというのは、「地の果てまで福音を」という主のご委託にもかなっていると思われる。


こういった非常に大きいメリットを、オンライン礼拝はもたらすことができる。


そのため、私自身は今のところ、「併用」が最善の選択肢である、という立場だ。


「オンライン礼拝は礼拝ではない」、という立場の方から、自分自身はまだ一度もしっかりと納得できる有効な論拠を聞いたことがない。


オンラインはあくまで「ツール」であって、「ツール」である以上はそれと向きあう「人間」がどのような向き合い方をするのか、ということこそが課題なのだ。

















教会とはなにか⑩ 教会が行う「社会活動」の是非

 教会のイラスト | かわいいフリー素材が無料のイラストレイン



教会は、社会活動をすべきなのか、すべきではないのか。


ここでいう「社会活動」は、広い範囲の事柄を含んでいる。


 教会は、教会として地域貢献を行っていくべきか。


 老人ホームや幼稚園・保育園をたてて地域の育児や介護に貢献し、


福祉施設を経営して地域の福祉に貢献し、催し物をすることで地域の観光に貢献すべきか。


 教会は、教会として政治活動を行っていくべきか。


 教会は原発に反対の署名活動をすべきか。


教会はチームを作って基地反対の座り込みをすべきか。


教会は選挙の時、ある特定の人を応援すべきか。


差別撤廃のための決起集会を行うべきか。


 教会は、教会として弱さのなかにある人を、さまざまなプログラムにより援助すべきか。


 教会は、様々な慈善活動を行うことで貧困と戦うべきか。


教会は、精神的に病んでいる人のカウンセリングを引き受けるべきか。


教会は、病のうちにある人をなんらかの形で援助すべきか。


 上の事柄は、政治活動は賛否両論あるとしても、善きこと、大切なことであることを疑う人はいないだろう。


これらの社会への貢献の働きは、誰かが担っていかなくてはならないし、


これらを通して隣人に対して愛の業、善き業をしていくことは大切なことである。


 しかし、これらを「だれが」するのか、ということがやはり大事な点である。


 上の事柄は、「教会」が主体としてするべきことだろうか。


つまり、教会の役員会や総会の議事として決定して実行すべきことだろうか。


それとも、「信徒」が各自、個人の召命の領域で取り組むべき事柄なのか。


 私は、これらは信徒各自が担うべき課題であって、


教会の役員会や総会の議案として「教会としての意思決定」をする事柄ではないと考えている。


つまり、これらを「教会が主体」となってすべきではない。


教会は、こうしたことではなく、「伝道」に集中すべきだ、と考える。


 なぜなら、上の事柄はすべて、教会以外の組織であっても、


むしろ教会以外の組織の方が専門性を発揮して引き受けることができる分野だからだ。


 地域貢献は、確かに大切である。だが、教会とは別の組織が担って運営することができる。


 政治活動にしても、教会がこれらを担うとすると、キリスト者は政治的な信条さえ皆同じ、という前提がなくてはならない。


ところが、キリスト者のなかには右寄りの人も左寄りの人もいる。


それなのに教会が主体として政治活動したら、明らかに教会は分裂する。


政治活動をするには、教会とは別の組織が必要だ。


 弱さのうちにある人々への援助にしても、確かにこれは教会が伝統的に重んじて来たことではあるが、


しかし現代においては別に組織を設けて、その組織がプロとして当たることがふさわしい。


 それでは、教会はそうした教会の外の別の組織にこうした社会活動を任せてしまって、


自分たちはこうした社会問題に対して、なんの貢献もしなくていいのか?


 いや、教会はこうした社会問題に、実に大きな貢献をすることができる。教会独自の貢献ができるのだ。


 教会は伝道に集中することによって、聖書の精神を身に着けた信仰者を育てる。


そうして成長した人々が、上にあげたような分野の組織に入り、その中でその人が地の塩として祈り、働くことによって、その組織の使命を推し進める。


聖霊による影響力が、こうして社会に広まる。それが、社会を清め、腐敗から守る「地の塩」としての働きになる。


こうして、教会は間接的な仕方であるが、社会問題の解決に貢献するのである。


 教会は、直接社会活動にコミットするべきではないが、しかし間接的にコミットするのだ。


聖書のスピリットに満ちた信仰者を豊かに育てることを通して、そうした人々が信仰をもって、社会問題の解決という課題を担って働くのである。


 教会は、伝道こそが存在理由だ。伝道に集中することによって、その独自の意義を果たすことができる。しかし、このことの射程距離は非常に広い。


御言葉によって養われた信仰者たちは、奮いたってこの世において、様々な課題を解決するために、地の塩・世の光として働くのだ。


こうして、教会を通して学んだ聖書の精神、キリストの支配、聖霊の力が、社会全体に信仰者の働きを通して、よい影響を与えて行く。


 これが、教会が社会問題を解決するやり方である。教会は伝道し、信仰者を育て、それによって間接的に社会問題の解決に貢献していくのだ。


 教会が役員会や総会で、上のような分野について決定をくだし、それらを教会が主体となって担って行くとどうなるか。


 一つは、「伝道」の衰退である。他分野に時間と力を取られてしまい、伝道に力を注げなくなって、教会がどんどん停滞してくる。


 もう一つは、教会の混乱である。教会は明らかに、上の他分野を担って行くような専門性を備えた組織ではない。


教会にできるのは伝道であって、他の事柄ではないのだ。


だから、こうした教会があまり得意としない、他分野の事柄に熱中すればするほど、いよいよ教会は力を失い、いろいろな混乱が生じてくる。本来の力を発揮できなくなる。


 教会は霊的な事柄、伝道に集中するからこそ、それによって教会の本来の力と独自性が発揮されて、かえって社会に対して大きな貢献ができるのだ。


教会は、伝道によって間接的に社会に関わった方が、結果的により大きく社会に貢献できるのだ。


 教会が、また牧師が他分野の事柄について「学ぶ」のはよいことだろう。御言葉を世に向かって語るために、こうしたことは十分理解しておくべきことである。


 また、教会で震災の支援金を募ったり、社会委員会を作って地域の課題を議論したり、といった次元のことであるなら、十分可能であろう。


 だが、これらの他分野に対して教会が主体となって、伝道する力をも大きくそちらに回してまで、「直接関わって活動する」ことはすべきではないと考える。


そこまで深くコミットするとするなら、別の組織にそれぞれが入って活動するべきだろう。


  伝道こそが、教会の使命なのだ。教会は、伝道によって社会問題の解決に貢献する。


伝道に集中してこそ、教会は社会に対しても独自の役割を果たすことができるのだ。


 








牧師の職務について⑥ 「伝道」に対して「間接的」な課題

 Juíza reconhece vínculo empregatício entre pastor e igreja - Migalhas  Quentes


教会を前進と成長に導くのは伝道である。それ以外にはない。


前進と成長は、伝道の結果である。


 伝道とは、御言葉を様々な方法によって広めることである。


 牧師は御言葉を広めるために必要なことはなんでもする。


牧師の存在意義は、御言葉を伝えることだ。牧師は伝道者であり、それ以外の何者でもない。


 しかし、このことは御言葉を広めることに対して、間接的であったり、距離があったり、必ずしも必要でないことは牧師はしない、ということを意味する。


 礼拝、祈祷会、集会、信仰教育、交わりの会、結婚式・葬儀といったことは、牧師は積極的にしていく。


これらは、御言葉を広めるためにどうしても必要だからだ。牧師自身が御言葉を語ることで、全力で伝道していく。


 ところが、以下のものは御言葉を広めることにとって、どうだろう。


 幼稚園・保育園の経営、カウンセリングの実施、福祉施設の運営、英語教室、バザー等・・・


 これらは、確かに間接的に御言葉を広めることに関係している。


付帯施設をしていれば、子供や保護者に御言葉を伝える機会がある。その他の事柄も、御言葉を伝えるきっかけとはなりうるだろう。


 だが、問題はこれらを「だれが」するのか、という点である。


 これらを「牧師」がすることになったらどうだろうか。


これらの事柄は、牧師に対して大きな労力と時間を割くことをどんどん要求してくる。


 牧師は御言葉を広める伝道者だ。


ところが、これらの働きを牧師が中心になってすることで、牧師は御言葉を広めること以外の恐ろしくたくさんの雑務と事務をこなさなくてはならなくなる。


牧師に与えられている時間と労力の非常に多くが、伝道以外の事柄に消費されてしまうのだ。


 こうして、御言葉を広めることだけに集中していれば、牧師に可能だったはずの多くの伝道の業が、こうした他の分野と事柄に分散されて、結局伝道の業にはわずかな力と時間しか注がなくなる。


 こうした伝道以外の他分野の働きによって、牧師が給与を受け取るようになると、お金をもらうことで責任が出てくるので、余計にたくさんの働きを引き受けざるをえなくなっていく。


こうして、牧師が伝道に注ぐべき力と時間が、他のことにいよいよ分散されて、伝道はいよいよ停滞していくのだ。


 答えははっきりしている。


こうした、御言葉を広めることにとって「あまりに間接的な事柄」から、牧師は身を引くべきだ。


そして、自分に与えられている全部の時間と労力を、伝道に、御言葉を広めることについて祈り、考え、学び、実施することに集中するのである。


 他の分野については、牧師ではなく、信徒の方々に担って頂くのである。


これによって、信徒の皆さんは、賜物を生かして奉仕する場が与えられるし、牧師は伝道に集中することで、教会の前進と成長におおいに貢献することができる。


 牧師が、御言葉を広める業に全力を尽くすことでしか、日本伝道の将来は切り開かれないと信じている。


 もちろん地方教会であると、牧師がこうした他の分野の働きから給与を受けないと、やっていけないほど教会が厳しいことが多い。


この事情があったとしても、牧師が伝道だけに集中できるようなシステムを、工夫を重ねて構築するべきである。


 牧師の時間と労力を、他分野に費やさなくもいいような体制ができないと、教会の停滞現象が克服されることはないだろう。


教会が新しく前進と成長を始めることもないだろう。停滞はますます深刻化するだけだろう。


 牧師は伝道者だ。


伝道者は、御言葉を広めることを使命とし、自らのすべてをこの使命にささげる。このことによって、必ず教会の将来は切り開かれることを確信するものである。


 





教会の衰退について⑧ 「罪認識のゆがみと消失」による教会の停滞・衰退

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なぜ日本の教会は停滞・衰退しているのか、というとき、「罪の問題」が非常に大きな課題となっているように思えてならない。


 「良心が罪の意識に苦しめられて、苦悩する」というのは、キリスト者の経験の一部だったはずだ。ところが、最近このような罪に関わる苦しみがほとんど教会でも見聞きされることがない。


 アウグスティヌスもマルティン・ルターもジャン・カルヴァンもジョン・ウェスレーも、皆この罪の苦しみのなかからキリストにある救いを見出して行った。


ところが、現代の教会からはこの罪にまつわる苦闘や苦悩がほとんど死に絶えたように思える。


 「罪認識」「罪の自覚」が消滅してしまったように見えるのだ。


 キリスト者が罪認識を失ったらどうなるか。十字架の恵みも薄れて行き、やがて消えてしまうだろう。


主イエスが十字架に苦しまれたことの永遠の意義が、隠れて見えなくなってしまうのだ。


 私達に「罪の自覚」がないことが、私達の教会の前進をおおいに妨げているのではないだろうか。


 自覚がなくても、罪は現に私達をとらえているのだ。罪は隠れた形で、猛威をふるっている。自覚と認識がないので、罪は私達の間で好き放題をしている。

 

私達の教会が罪の自覚へと改めて導かれることが、新しい出発ともなるだろう。


 では、なぜ罪の自覚は消えてしまったのか。


 それを神の愛との関係で考えてみる。


 「罪を犯しているから、神は愛して下さるのだ」そう考える人はおそらくいないだろう。


この考えだと、罪をもっと犯せば、それだけ愛してくださる、ということになる。


罪の完全肯定になる。ここまで極端に考える人はいない。


 だが、「罪を犯しているけど、神は愛して下さるのだ」と考える人は大勢いるのではないか。


教会の説教でもこういう言葉を聞くことがある。だが、ここには巧妙に隠されたサタンの罠がある。


 こうした言葉によって、またこうしたことを「これはいいや」と安易に受け入れてしまうことで、本心のレベルで罪が肯定されてしまうのだ。


結局、「わたしが罪を犯しても、神は愛して下さるから、今のままでいいんだ」ということになってしまう。


つまり、罪を悔い改め罪を捨てて、新しく神に従って行く、という生活の変化が、この理解だとまったく起こらない。


罪は容認される。罪は別に犯してもいい。


罪を犯しても、神の愛があるから大丈夫だ。こうして、罪を悔い改める必要はなくなる。罪を認識する必要もない。


 上の理解が、まるで恐ろしい伝染病かなにかのように日本の教会に広まっているのではないか。


罪を真剣に受け止めず、「神の愛があるから大丈夫」ということで、罪と向き合うことをしない。だから、主イエスの十字架のすばらしさ、ありがたさもよくわからなくなる。


 罪は、決して容認できないものなのだ。私たちはどんな小さな罪でも、抱えていたら天国に行けないのだ。


私たちはどんな小さな罪でも、それによって神の前に滅亡するのだ。罪によって、私たちは死という報いを受けなくてはならないのだ。


 だから、「罪を犯しているけど、神は愛して下さる」という形で、自分の罪を容認する理解を捨てるべきだ。


そうではなく、「罪を犯しているにもかかわらず、神は愛して下さる」という理解が正しいのだ。


 この理解では、罪は容認されていない。罪は否定されるべきものだ。


罪の恐ろしさを真っ向から受け止めて、それにもかかわらず神の愛が罪よりも勝っていることを信じるのである。これが本当の信仰なのだ。


 「罪を犯しているけど、神は愛してくださる」だと、私達の生き方や生活、日々の姿勢が変化することはない。現状は肯定され、容認される。


ところが、この「にもかかわらず」の理解だと、私たちは最終的には罪と同居することはできず、罪のすべてを捨て去って神の国へ行かなくてはならないことがふまえられている。


罪は憎むべき、死に値するものであることを認めつつ、なおキリストの愛に信頼する在り方である。


 この理解においては、私達の人生は罪との戦いなのである。


どこかで罪と休戦することはありえない。私たちは神のもとに召されるまで、罪と抗争を続ける。


罪を犯して、神の愛を信じて悔い改めて、立ち上がってまた歩み、また罪を犯し、しかし立ち返り、という戦いを続ける。


こうしたなかで、私達の人生全体がいよいよ善きものとされ、聖なるものとされ、キリストの恵みを映し出すものとされていく。これがキリスト者の歩みなのだ。


 教会が停滞しており、力を失っているのは、罪を容認し、罪を肯定しているからではないだろうか。


これにより、すべてが現状維持に留まってしまっている。


私たちは生涯、罪と戦いを続けるべきなのだ。


 私たちは罪にもかかわらず、主イエス・キリストによって神に愛されている者なのだから。

 










教会とはなにか⑨ 「教会が停滞する原因」

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教会の前進と成長について書いた。では、なぜ教会が停滞するのか、と考えたい。


 教会が前進するのは、御言葉の種がまかれ、それが成長して収穫に向かい、新たな畑に播かれていくからだ。


当然、この神の農作業(御言葉の種まきと収穫)の循環がどこかでとどこおって、妨げられるなら、教会は停滞する。停滞の原因はいくつか考えられる。

 

     「説教」が説教になっていない

 

御言葉の種まきである説教が、御言葉の命が聖霊によって豊かに根付き、成長するようになされていないなら、当然教会は停滞する。


聖書の御言葉から、祈りと学びを通して、豊かに恵みをくみ上げるように牧師が準備しているかどうか。


 むしろ、聖書のうちにあるキリストの命以外の事柄に熱中して、聖書の外の事柄を話すことの方に傾いていないか。


聖書の御言葉を説教しているのか、もしくは自分の思想やこの世の考えを説教しているのか。


 もし牧師が聖書の示すキリストの命を説教していないなら、教会は当然停滞する。


牧師が自分に与えられている時間や労力を、聖書から命をくみあげることに集中しているのか、それとも別の事柄に大半を使ってしまっているのか、が問われている。


牧師が自分の時間をもっとたくさん説教に注いでいれば、教会は更に前進するはずである。


 現代の牧師は、明らかに祈りと説教準備以外のことをしすぎである。


付帯施設の働きや、様々な会議や、牧師同士の付き合いなどなど。


牧師が祈りと説教準備の時間を削れば削るほど、教会の停滞は深刻化せざるをえない。

 

②会衆のうちに祈りの生活が形成・確立されていない

 

牧師の説教の責任は重大である。


しかし、それだけではない。


会衆が、自宅や職場、その他どんな場所でも聖書を読み、祈る生活を形成していないなら、会衆のうちに聖書の御言葉の力が働くのが妨げられる。


 説教がまずいのが最も根本の問題だが、会衆が本当に聖書に親しみ、祈りの生活を送っているときには、なお教会は前進することができる。


会衆が祈りの生活を形成し、確立していないなら、教会の堅固さ・着実さ・確実さは鈍ってくる。

 

③罪が放置されている、罪との戦いがなされていない、神に応答していない

 

御言葉の命が与えられていても、私達の罪はその成長を妨げ続ける。


 御言葉を聞くことで、神の命の力が私達のうちで働き、成長し続けるが、しかし私たちが犯す罪が、その前進と成長をいつも妨げる。


だから、その罪との継続的な戦いがなされなくてはならない。


また、罪を犯したときには、悔い改めて主の道に立ち戻らなければならない。


聞いた御言葉への応答が捧げられなくてはならない。


こういった領域には、厳しさもあり、戦いもある。


 こうした戦いや悔い改めがなされることがないまま、罪が放置されて漫然と時間だけが過ぎて行くことになってはいないか。


牧師も、会衆も、共に罪に対する悔い改めと戦いをすることによって、御言葉の力は豊かに私達のうちに輝いて来る。罪が私達に勝ち続ける限り、教会は停滞を続ける。


 特に、個人でも家庭でも教会でも、御言葉を受けて祈ること、神に応答することにおいて怠慢であったり、その重要さをあなどっているとするなら、教会の停滞は明白にあらわれてくることは間違いない。


 「今の時代は、特に日本は伝道が難しい」と言われるときの、教会停滞の原因の外部的要因については、様々なものがある。


歴史的なものもあろうし、日本人の精神性によるものもあろうし、現代の特殊な状況に起因するものもあろう。


だが、これらは本質的ではない。これらがあることによって、もちろん伝道はより困難になるが、しかしこれらは絶対的な障害ではありえない。


 困難な時代には、教会はよりゆるやかに前進する。


順調な時には、大きく前進する。


教会はどんな時代にも前進し、成長する。


しかし、もし前進と成長を全然しない、ということならば、その原因は私達の罪にあるのだ。


他の事柄に責任転嫁してはならない。


 牧師が説教に全力を注ぎ、会衆は祈りの生活を確立し、牧師も会衆も共に罪を悔い改め、共に罪と戦い続けて行くなら、前進しない教会はない。


成長しない教会もない。


 これが私達の確信であるべきだ。

 







齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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