オンライン礼拝と「隣人」の存在

礼拝堂での礼拝にはあっても、オンラインにはないものに、「身体をもって共に集う」ことがある。


オンラインは、ネットを通して礼拝の情報に触れることができるため、身体的に教会に足を運ぶ必要がなく、また他の人々と共に集いに加わる必要もない。


イエス・キリストは神でありながら身体をとり、人となられたお方であって、このキリストに倣う以上は、私たちもまた身体をもって神の前に出る、というのが最も基本的な信仰の基礎であることは確かだ。


キリストの受難にあずかるとは、キリスト者においては「日常のわずらわしさや忙しさ、あらゆる問題、自分のメリットのためにできるならばしたい活動に囲まれながらも、それらを脇へ置いて礼拝に出席する」ことにおいて、最も実践的に表現されているとも言える。


また「身体の復活」を信じている者として、信仰は「魂」の領域に関わるばかりか、全人的なものであり、身体をないがしろにするような信仰は、霊肉二元論の「グノーシス主義」の弊害に陥りやすいものだ。


そもそも、創造論からして、「なぜ神は天使とは異なり、人間を霊的な存在でありながらも身体をもつものとして創造してくださったのか」という根本を考えてみるとき、神と隣人との交わりにおいて、やはり身体が重要であり、これを神が喜ばれていることは認めることができるだろう。


神学的に各方面から、礼拝は「身体をもって出席する」ことに意味がある、という点については、言うことができるだろう。


一方、ではオンライン礼拝は、そのようなことができないので、「礼拝ではない」と結論づけることができるだろうか。


まず、個人的な日々の祈り(デボーション)について考えてみよう。このような個人的な聖書を読み、祈るひとときは、「礼拝」とは言えないのだろうか。


もしこれが礼拝と言えないなら、病床にあって礼拝に出席できない人々や、高齢のため教会に出席ができないという人々は、病院や自宅で祈っていようとも礼拝はしていない、ということになるが、そういうことがありうるだろうか。


状況をすべてご存じの神が、その人々に聖書を通して語りかけ、祈りを与え、祝してくださるという点で、個人のデボーションも「礼拝」であると言うことができるのではないか。


オンラインの場合は、ある教会の動画や音声にネットを通して「アクセスする」という手順が生じるが、同じようにすべてをご存じの神がオンラインを「お用いになる」という自由を、私たちは勝手に閉ざすことができるだろうか。


むしろ、神がオンラインという手段を通して礼拝する人々をご存じであるのに、その人々の礼拝をそれが「オンラインだから」という理由で受け入れてくださらない、と考える方が、神の愛と自由を人間が自分勝手に狭めるような、不信仰な態度ではないだろうか。


オンライン礼拝を礼拝として受け入れてくださるのは、神ご自身なのであって、私たちはその神の愛と自由を勝手に制限してはならないだろう。


事実、オンラインを通してみ言葉と聖霊の働きにより、魂が養われている、ということを現在多くの人々は経験している。


神はオンラインを通しても、お語りになることができ、救いの御業に私たちをあずからせることができるのだ。


それでは、礼拝に「共に集う」ことの意味とはなんだろうか。


オンライン礼拝の弱点の一つは、「神と自分」の関係が養われるためには有効な部分が大きいが、「隣人と自分」の関係のためには、むしろ有効ではない、というところがあると思われる。


礼拝堂での礼拝においては、常に「共に集う」隣人の存在があり、その人々と共にいることを意識せざるをえない。


そして、神の前にありながらも、隣人のために配慮や祈りがつねに必要となる。


教会形成に従事し、また互いのことを語り合い、祈り合っていくという点において、オンラインにはないような「横の次元」がそこには豊かに存在している。


「横の次元」が欠落した信仰生活は、やはり重要な点が見過ごしになりがちになる。


イエス・キリストは私たち罪人というキリストにとっての隣人のためにこの世にこられ、みずからの命を注がれたお方である以上、私たちも隣人を無視したままキリストに従っていくことはできない、ということだ。


「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(Ⅰヨハネ4:20)とあるように、「兄弟姉妹を愛する」ことと、「神を愛する」こととは、直結しているのだ。


十字架に縦木と横木が不可欠であるように、神への信仰には横の次元がつねに伴う。


オンライン礼拝は、ある意味においてその「横の次元」を見過ごしにしてしまったり、真摯に受けとめな信仰生活を生み出してしまいがちであるという弱点があることについては、私たちは自覚的でなくてはならないだろう。


オンライン礼拝が「隣人の存在」をとりなし祈り、隣人と出会うことから私たちを遠ざけてしまうのなら、それを誘惑としてとらえる視点をもつべきだろう。


ボンヘッファーが『共に生きる生活』で語っているように、「一人でいることができない者は交わりを用心しなさい。・・・交わりの中にいない者は一人でいることを用心しなさい」。


他方、オンラインというツールが与えられている恵みを、あまりに短絡的な考え方によって否定していれば、今後の教会にとって伝道・牧会のための道を見失うことになりうる。


問題点についてはしっかりと見極めつつ、メリットはしっかりと有効活用していく知恵が求められている。






齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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